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ニーチェ「潔癖の本能」 人との交際は忍耐の試練を課す

ニーチェは潔癖症でした。「不潔な生活条件のもとでは命があぶない」ほどの症状でした。

また、人間関係においても潔癖症が深刻でした。彼は他者の「内臓」とでもいうべきものを生理的に知覚してしまうため、人との交際は「少なからぬ忍耐の試練」となりました。

ニーチェの著作は、そのような彼の鋭敏な感覚から生まれたのです。

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自分自身に対しての極度の清潔癖が、わたしの生存の前提となった。わたしは、不潔な生活条件のもとでは命があぶない──

だから、わたしはいわば、たえず水の中で、もしくは、なにか完全に透明で光り輝いている元素の中で、泳いだり、ひたったり、ぱちゃぱちゃしている。

この潔癖のために、人との交際は、わたしに少なからぬ忍耐の試練を課するのである。わたしの人間愛とは、他人がどういう人であるかを感じ取ることにあるのではなくて、わたしがその人間を感じ取ることに耐え抜いているということにある・・・・・・

わたしの人間愛は絶えざる克己である。──しかしわたしに何より必要なものは孤独なのだ。つまり、快癒、自分への復帰、自由で、軽やかで、遊びたわむれる空気を呼吸することだ・・・・・・
手塚富雄訳『この人を見よ』「なぜわたしはこんなに賢明なのか8」

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わたしの天性のもう一つの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか?これがあるために、わたしは人との交際において少なからぬ難渋をするのである。

すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺──とでもいおうか?

──もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚し──かぎわけるのである──わたしは、この鋭敏さを心理的触角として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。
手塚富雄訳『この人を見よ』「なぜわたしはこんなに賢明なのか8」

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ここではニーチェは自分の「本性」の究極の特徴が「潔癖性」にあると述べている。彼には不気味なほど「潔癖の本能」が具わっていて、「どんな人の魂の最内奥、『はらわた』」をも「生理的に」知覚し、「嗅ぎ分ける」ことができる。

彼はその「神経過敏」を「心理的触覚」として、どんな「秘密」にも触れ、手に入れてしまう。ただ、「多くの本性の根底」には「隠れた汚れ」がある。それは「悪い血」のせいかもしれないが、「教育」で上塗りされている。

しかし、それが彼には「最初の接触」で分かる。また、その「潔癖性」によって彼が「嘔吐」を感じていることを気づく人もいるくらいである。そこで彼は「私に対する極度の純一さが、私の現存の前提であり、私は不純な条件の下では死んでしまう」とまで述べている。

このような「潔癖症」のために、人との交際はニーチェにとって「小さからぬ忍耐の試練」となっている。したがって、「私の人間性は絶えざる自己克己である」と言い、「私は孤独を必要とする」と述べる。

そして、ここで彼は『このようにツァラトゥストラは語った』全篇が「孤独への讃歌」であり、「純粋さへの讃歌」であると言い、「『賎民』に対する嘔吐」がいつも「最大の危険」であったと言う。
岡村康夫『瞬間・脱落・歓喜 ニーチェと永劫回帰の思想』(知泉書房)p125-126より

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