マスカラ 第一話
序章
「もう好きじゃなくなったの」
仁海の声が頭の中に何度も流れる。目を閉じるとその時の部屋の様子が脳裏に浮かび上がっている。ソファーの上に乱雑に置かれた枕、テレビから流れるニュース、鏡の前に置かれたマスカラ……。「だから別れよう」と続けた彼女の言葉にあまりの衝撃に回らない頭で「そっか」と辛うじて返事をした。声も部屋も鮮明に覚えているのに、彼女がその時、どんな表情だったのかだけが思い出せない。
彼女が去った部屋で僕は抜け殻のようにソファーに座っている。心は空っぽなのに頭の中はごちゃごちゃだ。「なんで」なんて理由は明白だ。「もう好きじゃなくなった」と彼女が言ったのだ。ふと喉が渇いて目の前のグラスを手に取った。口元まで近づけてからほんのりと香るブランデーに彼女と最後にそれを飲んだ時間を思い出して、再びグラスを元に戻した。
ソファーの背に体を預け、目を瞑る。不意に「涼くん」と僕を呼ぶ仁海の軽やかな声が聞こえた気がした。パッと立ち上がるも、当然仁海の姿はない。「なんで」と繰り返してもしようがない問いが頭の中をぐるぐると廻る。
この恋に終わりがあるのなら始まらなきゃよかったのか。なんて自分に問いかけるけれども、本当は答は分かっている。もしこの人生が何度繰り返されるとしても、僕は恋に落ちて、仁海に告白していたし彼女はそれを受け入れただろう。たとえ終わりがあるとしても二人で過ごした幸せな日々がなかったらよかったとは思えない。
ただ自分がもう少し強かったら、もう少し大人だったら、もう少し素直になれていたならば、この恋に終わりはなかったのだろうか。
*SixTONES「マスカラ」
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