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【連載】子供の教育について考える

教育とはなにか。長男が小学校にあがった今でもわからなくなっている。困ったら定義に戻れなので戻ってみよう。

教育(きょういく、英語: education)は、教え育てることであり、ある人間を望ましい状態にさせるために、心と体の両面に、意図的に働きかけることである。(wikipediaより)

なるほど、望ましい状態にすることであるという。望ましい状態というのは誰にとって望ましい状態なのか。「親」なのか「教師」とかが少なくとも望ましい状況になのだろう。この人達を「教育者」という名前をつけるとしよう。すると「教育者」の望ましい方向に「教育」をするということになる。

ちょっと話がずれると「WISC-Ⅳ」という知能検査がある。ここでは以下の4つが指標としてわかる。

言語理解指標(Verbal Comprehension index、VCI)
知覚推理指標(Perceptual Reasoning Index、PRI)
ワーキングメモリ指標(Working Memory Index、WMI)
処理速度指標(Processing Speed Index、PSI)

ここからわかることは「教育者」が言ってすぐわかるわかる能力、「処理速度指標」が高い子供ほど優秀であるという定義が「教育者」でされていているこということだ。逆にいえば、「処理速度指標」が低い子供のもっている優秀さは、「教育者」にとって必要でないということになる。

もうちょと平易な言葉でいうと「先生のもっているカードで通じる相手でないと通じない子供以外いらない。」ということになる。もうちょっと言葉を否定形でするのをやめてみるとこうなる。「教育者のいうことをわかる子供以外は切っていい。」

私が最も尊敬する先生の向後先生がおっしゃる「教えたのにできないのは、100%教える人の責任。」に従うと自称すばらしい初等教育をしてる方々は「通じる子供相手にしか教育ができない」といってしまっている。私の長男は正直とんちんかんな返事をすることもある。でも彼の教育ができないとバンザイした学校もどきをみると、「単に言うことが通じる子供を集めて優秀でしょう」というプレイをしているだけなんだろう。

さらにいえば、そのような教育をする人達は「自分達にとって都合のいじ教育」しかしていない。それは「持続的な経済発展をする社会」で生き延びるためのスキルだ。そうじゃなくて持続的な経済発展がない社会でも生き延びるスキルをどうやってかくとくさせる教育を私の子供たちにはしていきたい。

もう少し話を進めると、子供には「プログラミング教育」はしたくない。私のポリシーではある「プログラミングは手段であり目的ではない」からだ。よく使う例えとして「いまから100人にFAXを送るとしたらどうしますか?」という答えに「FAXを送るプログラムを作る」というのは目的を手段化している答えだ。そうではなくて「いまからFAXを10台買いに行きます」というのが手段として理解しているかの答えだ。

そういう意味でいえば、いま評価される子供は「大人ができることを子供がしている」という軸でされる。たとえば「それっぽいプレゼンができる」とかだ。でもそんなものいらない。それは手段であり目的でないからだ。

つまりほぼすべての教育(笑)のような目的をいう人に通じていることは「自分にとっって都合のいい子供を育てる」ということに帰着している。それを見分けるための手段として私が提案するのは「この人は持続的な経済発展を期待しているのか」ということだ。学校もどきはそれを前提にしていて、もうわかり合えないなとおもったのである。

「自分のやり方が通じない子供に教育する」ことを放棄したことは自分の無能さを表してることに永遠に気がつかないと言うことである。

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