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自分の中を良いもので満たす(ただしものすごくゆっくりと)

 夜中にふと目が覚めて、アレクサに時間を聞くこともなくキッチンでお茶をいれ、Macの前に座ってみる。眠れない夜とおもえば悲しい気分になるかもしれない。ゆっくり文章を書ける夜とおもえばそれはかなりいい夜な気がする。

 ちょっと前まで自分の中は悪意で満ちていたもので一杯一杯になっていた。しかも、それは澱んでいてどんなに外から観察しても底が見えてこなかった。水が澱んでいるかどうかは、中にいるうちはわからなくて、外に出て外からみて初めてわかるようになる。スキーマ療法などを始めた今年の春ぐらいからちょうど半年が経って、やっと澱んでいた水を全部流し終わって、内壁の修復の目処がたったきがする。まるで、光電管が一気に破損したスーパーカミオカンデを直すみたいな作業だったのかもしれない。

 たぶん生きていくのに最低限必要な水ははいったこと、しかも8月末にある程度急にいれることに成功したのかもしれない。スキーマ療法のやり方を考えれば、ゆっくり水をいれていくことが大事だったはずなのに、たまたま水を数方向から同時にいれることが出来て、その入れ方がたまたま成功しただけな気がする。それはそれでとても良いことだし、またスーパーカミオカンデに例えれば、ちゃんとニュートリノの観測ができるようになった気がする。私のスーパーカミオカンデで受信したニュートリノは、共同体感覚なんだろう。

 ここからゆっくりゆっくり水を1滴づついれる作業を私も気がつかないように、良いものをいれていきたい。自分の周りを見渡すと、まだ自分にとっていらないものが一杯あって維持をするだけに精一杯なものがある。たぶんこれはいらない。さらにいえば、体が感じることをもっと大事したいという、体の声が聞こえる。例えば、今の家はとても大好きなんだけど、あまりにも地面から遠すぎて空気の香りなどを感じることを体が忘れている。頭で考えてはいけなくて、体に対して、ゆっくり、ものすごくゆっくりと体に染みこんでいくようなことを体が求めている。

 そして手を動かすということが、リアルに手を動かすことと、そうでないことのバランスがあまりに悪い。デジタルなことに対するエンジニアリングをすることは、肌触りや臭いといったものから遠い世界に位置する。エンジニアリングは生活するための技術として必要だし、まだ一線にはそこそこついて行っているきがする。でもそうじゃないもので自分を満たさないと、また悪意の塊になってしまいそうなきがする。でも急いではいけない。もう急ぐ必要もないし、たぶん急ぐことじゃない。気がついたらそうなっていたぐらいが一番いい気がする。だからなにかをゆっくり初めて行こうと思う。目の前にあるものをただ淡々と体が覚えるまで繰り返すようなことを。

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