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心の瞳

人を見るとき、色んな尺度で見ることが出来ます。
外見、性格…や、学力、収入など数字で測れるものもありますよね。
親しい人から、「本人が変えようもできないことは安易に褒めてはいけないっていうよね。」と大事な言葉を聞きました。
例えば、一重がコンプレックスの人に「一重って良いと思う(二重の人より)」、背が低いことがコンプレックスの人に「小さくてかわいいじゃない(大きい人より)」というのは、本人にとって嬉しいものではないことが多いと思います。

人を見るときは、人生を過ごすうえで様々な場面であります。
例えば、わかりやすいものがクラス内の闘争、就活、婚活。
クラス内では、頭が良い、外見が良い、足が速い…。
就活では、頭が良い、外見が良い、優れた活動の功績がある…。
婚活では、頭が良い、外見が良い、収入、身長、他の状況など…。

クラス内、就活、婚活といった場面で主に評価軸とされている事は、優れていれば社会的に有利にであるという、「世間体」に基づいたものですよね。
人を見るとき、分かりやすく評価されやすいものというのも大事な要素です。何故なら、どういう遺伝的・環境的背景があったとしても、“努力した”背景があるのですから、事実であり素晴らしいことです。

そこまで分かりやすい場面でなくても、たった一瞬の挨拶、繋がりだとしても人は人を見ています。
「すれ違いざまに挨拶した近所のおじいさん、優しそうなひとだな」
「コンビニの店員さん、笑顔で親切だったな」等

一瞬ではなくとも、大切な友達、恋人、家族のことも見ています。
友達や恋人、家族と話しているときは、何も考えていないことが多いと思います。
私は、どんな人も比較的平等であり、いつでも変えられることで人を見ることが出来るように、“現在進行形で○○してくれた“という視点で見ることが、非常に重要だと思っています。

「今、○○してくれた」ということは、行動であるので、いつでも変えられます。また、子どもから大人、障害を持っている方から健常者、お金の無い人からお金持ち、性別関係なく平等な視点で見ることが出来ます。
(何かをする、ということにも、多少力がいるもかもしれませんが。)

「水を取って来てくれた」「褒めてくれた」「時間を割いて会ってくれた」「話を聞いてくれた」「挨拶してくれた」「筆記用具を貸してくれた」「どこにいるか気を遣ってくれた」など、そのことを実感するだけで私は嬉しくなります。

小さなしてくれたことはまぎれもない事実であり、自分の中で積み重ねて思い出せば、どの関係の人からでも親切や愛を受け取ることが出来るなと思います。

以前過去の記事で「数字ではないところを見る」ということについて、記事に書いていたと思うのですが、どの記事か忘れてしまいました;

話は反れてしまいましたが、読んでいただいてありがとございます。

冬譜

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