ユーチューバーを見る理由を知り自己反省し建設的に考えようとする記事。

 最近、見ていたユーチューバーが、私が良く子どもの頃から通っていた地元の町を撮影していて、その町で沢山の青春を過ごした思い出を思いだし懐かしい気持ちになりました。

「あの頃はもう戻ってこない」「今は亡き青春」という言葉が頭に浮かび少しドライアイが潤いました。私の人生にはもう関わらないであろう人たちとその町で同じ時間を過ごしていたことは、やはり予想していた通りに過去になりました。当時、私の見ている世界はそれだけでも幸せでした。

 ・ユーチューバーとの出会い

昔、YouTuberという言葉がどんどんどんどん話題となり、5年ほど前に世の中の流れを知るためにYouTuberを見ました。そしたら、自分とは全く別の世界の人が別の人生を歩んでいてとても衝撃。それからはYouTuberを見るようになり、YouTubeを見れば別の感性を持った人が同じ時を過ごしていることも分かり、また過去の動画をさかのぼれば、自分があの時こうして過ごしていた頃にはそのYouTuberはこんなことをしていたんだという事が分かります。

5年前はそのYouTuberを見ることで自分の自由な未来を見たかったんだと思います。
4年前はそんなに見なかったけれど、3年前からそれはヒートアップしました。
3年前はこのように生きることができたらいいなという願望があったように思います。そして私は様々なYouTuberを見るようになり、様々な人生を送った人を見ました。動画の中の人格だけであってもその人の一部の人格を表していまして、それを見るだけでも自分とは違う人たちを見ることが楽しかったです。

 ・ふと振り返ってみて

そして最近でも何気なく見ていました。だけど、冒頭で書いた動画に移った自分が過ごした町を見て思い出を振り返っているうちに、私はYouTuberを見ることで「自分が成し得ることのなかった人生」を見たかったのだなと思いました。
子育てをする主婦の方はテレビを見ることが好きだそうです。その心理としては「自分が過ごせなかった違う人生をテレビの画面の向こうに投影しているから」と、どこかで聞きました。そのことを思い出し、私は、自分はその人の過去の動画を観ることで送ることのできなかった人生を見たいのだなと思いました。

「一人ひとりのYouTuberを追う人生でいいんだろうか」「他人の人生に時間を費やすよりも、自分の人生を生きたい」と思っています。よくもまあ5年間も他人の人生を覗き見ていた、その自分の糧にしなかった時間や労力がもったいないと思いつつも、自分にとっては「知らない世界」を知るために必要な時間だったのかもしれません。
でも、誰かの人生を眺めたりそのようになりたいと思ったりと、誰かになりたいと思うことほど滑稽なことはありません。

・展望

私は今ある程度人生を振り返る区切りのある時期にいると思っています。振り返り切った後で、前に進みたいなと。今は自分の気が済むまで人生を振り返り、そして誰にも話すことのない人になりたいと思っています。勿論、話す必要があれば話すようなことをしますが、自分の過去を話すことほど滑稽なことが無いと思うのです。なぜかというと、私は個人的に自分の過去を身内に話すことは価値観の押し付けのように感じるし、努力してきた過去を身内に語らないという謙虚な姿勢を尊敬しているし憧れているし、過去を話しているよりも今現在を生きた方が良いと思うからです。

そして、こうして自分が何かを発信することで他人が自分の人生を見ていることもあり、世の中は多少なりとも循環していることを感じます。(自分の記事を見る人は少数精鋭ですが。)私は「見る側」をもう卒業しなければなりません。「見る側」よりも「見られる側」の方が自分の人生を生きていると思うので、「見られる側」となれるようになりたいです。

 要約:自分の成し得ることのなかった人生を眺めるよりも、自分の人生を生きる。

 ありがとうございました。

 (これから少しこういった自分の思い出のような比較的軽いテーマについての記事が多くなると思います。)

 冬譜

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