性格の変革と諦観 

 人間誰しも自己の性格の長所と短所を自覚し、短所を克服しようと試みてきたであろう。
私も同様である。

幼い頃から自己を恃む気持ちがあったと同時に、自己嫌悪も強かった私は、無意識的に自らの人見知りや、泣き虫なことなんかをどうにか治そうと努めていた。

ことにこうした性格矯正を強く認識してするようになったのは、高校一年のときに司馬遼太郎の「世に棲む日々」を読んでからだった。

学問の目的は「自己の性質の矯正にある」といった旨の台詞があったと記憶していて、大いに感銘をうけたのである。


それから月日がたった。
私は性格の矯正というものが可能なのかはっきりいおう。

表面上は可能だ。しかし内面的に、本質は不変である。これは生まれもった性であり、運命なのだ。

とはいえ、その表面の変革に躊躇うべきではない。表面上の己を偽り続ければ、いつの間にか自分も騙されてしまう。そうすれば、内面的にも変化が訪れる。

しかしある時、何かの拍子にはっと気づく。自分の本質は変わっていなかった、と。けれども諦めずまた自己の変革を目指す。
この繰り返しが、重要なのだ。


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