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「地獄の黙示録」(1979) 〈映画Vol.1〉

うだうだと書き連ねていてもしようがないので、とにかく一本書いてみることにする。

私達は普段、清潔なシネコンや快適な自室で映画を観る。
そして昨今の撮影現場はアビットでの仮編集やアステラなどの照明機材の進化が目覚ましく、モダンでシステマティックな現場が主流になった。
だが、と私は思う。
1979年に公開された「地獄の黙示録」
この映画は邦題以上に現場が「地獄」だったのだ。
私はこの映画を心から愛している。
だけどじゃあその理由を説明するというと容易ではない。それでもなんとか簡潔に説明するとすると、次のようになる。
地獄のような現場から執念で生み出された“難産”映画にしか持ち得ない妖気のようなオーラを纏った作品。
以下でもう少し詳しく説明したい。

闇の奥


映画「地獄の黙示録」はポーランド生まれのイギリス人作家ジョセフ・コンラッドが19世紀末に書いた代表作「闇の奥」を原作としている。
「闇の奥」は、ベルギー領時代のコンゴ川を蒸気船が遡行してクルツという男を探す物語だ。
が、コッポラはこの舞台をベトナム戦争時代のメコン川に変え、マーティン・シーン演じるウィラード大尉が哨戒艇で遡行してカーツ大佐を探す物語に翻案した。
その凄まじい撮影現場の様子は、コッポラの細君であるエレノア・コッポラがユナイテッド・アーティスト社の依頼で撮影した「ハート・オブ・ダークネス 〜コッポラの黙示録」にて垣間見える。


ことの発端は1969年。


ロジャー・コーマンの元で低予算映画の監督としてキャリアを積んでいたフランシス・フォード・コッポラは30歳にして映画制作会社アメリカン・ゾエトロープ社を設立。
ハリウッドシステムからの脱却を目指す。
その一発目の映画が「地獄の黙示録」、になるはずだった。
初期の段階で監督は盟友ジョージ・ルーカス、脚本を若きジョン・ミリアスに託し、企画は動き出した。
しかし恐ろしいことにルーカスとミリアスの当初の計画では本当にベトナムに行き16ミリカメラを担いでロケをするつもりだった。
ちなみに、その時のベトナムはまだ戦争の真っ只中である。
こんな企画にゴーを出す映画会社はない。ワーナーをはじめ、みんな手を引いた。
コッポラも製作を諦め、「ゴッドファーザー」に心血を注いだ。
そして、みなさんご存知のようにこれがアカデミーで8部門を制し、興行的にも世界中で大ヒット。
その儲けでコッポラはまた夢の続きを見ることができた。
時は1975年、サイゴンの陥落。本物のベトナム戦争も終焉を迎えた。
この時点で予算は1300万ドル。
この資金は自費で工面せざるを得ない。
コッポラは家族の資産を抵当に入れた。

「ハート・オブ・ダークネス」より

「地獄の」撮影現場



撮影はベトナムと風景の似てるフィリピンで行うことになった。
米陸軍がベトナム戦争の映画の撮影協力を拒否したため、コッポラはフィリピンの大統領に掛け合って、1日1000ドルを軍に支払ってヘリを自由に使わせてもらう約束を取り付けた。
フィリピンも内戦中だったのだが。
案の定、撮影現場の16キロ先の丘に反乱軍が潜伏しているという噂があり、空軍の元帥が終日現場に居座ることになる。
そして無情にも撮影の最中にヘリが召還されて行ってしまう。
撮影は幾度も中断を余儀なくされた。

米国から来た記者に対してコッポラはこう答えている。
「我々はここでじりじりと進み、毎日100個の問題に直面する。これはまさに戦争だ。」

そして1976年、災害級の台風が撮影隊と美術セットを襲った。
セットの修復のため2ヶ月の撮影中断。アメリカに帰ってラストの展開の脚本に悩むコッポラ。
頭を悩ませる大きな問題はもう一つ。資金繰りだ。
とうとうコッポラは家や車をユナイテッドアーティストに質入れせざるを得なくなった。
マスコミは「彼はイカれている」と書いた。
「映画を放棄しようとは考えませんでしたか?」インタビュアーにそう質問されたコッポラは次のように答えている。
「自分自身をどうやって放棄する?」

結局予算は300万ドル超過。その分はユナイテッドアーティストが負担したが、興行収入が4,000万未満の場合はコッポラがその分を返済するという契約だった。

「ハート・オブ・ダークネス」より


撮影は佳境に入ってきた。
当時色々あってハリウッドでの立ち位置が微妙だったデニス・ホッパーが意気揚々とフィリピンにやってきたが、セリフを全然覚えていない。
そして真打ちのマーロン・ブランド。
週100万ドルのギャランティを受け取るこの男が、まだまだコッポラを悩ませる。
彼はフィリピンに入る前に痩せる約束をしていたが、逆に太って現場にやってきた。ジャングルの奥地に潜伏している男がでっぷりと太っている。
ブランドの法外なギャラは1日毎に支払われているが、彼の細かな注文について話しているだけでその1日が終わる。
その間スタッフは全員待機。
無茶苦茶だ….。
それなのに彼は原作すらロクすっぽ読んでいないのだ。
コッポラはフィリピンにやってきて何万回もそうしてきたようにまた頭を抱えた。
そしてカメラに向かって悲痛な声をあげる。
「3年間やってきたことが全て無駄になる。このたった一人のバカ男のせいでだ。」

散々話した挙句、結局ブランドには即興で演技をさせることになった。
結果としてこの映画の結末はコッポラが自覚しているように、弱かったと言わざるを得まい。
だけどなんだろう。
後年の私からするとなんだかこれでいいような気もしてくるから映画は不思議だ。

「ハート・オブ・ダークネス」より

川は眠ることがない


映画は1979年に封切られ、オスカーや、英国アカデミー、カンヌでも入賞を果たした。

それから20年後の21世紀はじめに公開された「地獄の黙示録 特別完全版」では、カットされていたあるシーンが追加されている。
それは「フランス人のプランテーション」のシーンだ。
哨戒艇が上陸すると、常時霧が出ていてまるで夢の中のようだ。
と、これはコッポラの指示。
やっぱり、と私は思った。
振り返ってみるとあれって現実だったのか?と思うようなシーンが映画には必要なんだ。こんな戦場の真っ只中にあんな30年前から時が止まったような場所が?と。
まるで大林宣彦の「廃市」(1983)のようじゃないか。
私はこのシーンが大好きだ。コッポラがいうように、我々は星の光を見るが、見ているそのときにはすでにその星は無い。というような虚しさと儚さがある。
「完全版」より「通常版」の方が面白い、なんて作品は別に珍しくない。
だけどこと「地獄の黙示録」に関しては例外だと、私は思っている。
これは偉大なる例外だ!


「ハート・オブ・ダークネス」より

クルツ(カーツ)とは誰だったのか?



ユナイテッドアーティスト社製の「ハート・オブ・ダークネス 〜コッポラの黙示録」のラストはこう締められている。
1991年のコッポラがインタビュアーに答えている。
「8ミリビデオなどが出てきて、今まで映画を作らなかった人々が作るようになる。
オハイオのチビデブの子が新しいモーツァルトになり、父親のカメラでガールフレンドの映画を作る。
映画の凝り固まった職業主義が永遠に破壊され、映画が真の芸術を形成する。
これが僕の考えだ。」

現在の映画界は果たしてコッポラの望んだ世界だろうか?

物資もなく、人材も時間も何もない。
暑くて、蚊がいて、不衛生な環境で、今日の分のシーンを撮り切れる保証なんてまるでないジャングルで、失敗への恐怖、死への恐怖、狂気への恐怖と闘った記録。
それ自体が映画「地獄の黙示録」という神話と奇妙なほどリンクする。
フランシス・フォード・コッポラはその闇の奥へと遡行していき、
クルツの代わりにジャングルの王に、
はならずにしっかりとハリウッドに帰ってきた。
その後の活躍はみなさんご存知の通りである。



クルツはきっと今も、どこかの川の上流で誰かを待っている。
The horror! The horror!
地獄だ この世の地獄だ

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