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架空の物語が貧相だから、サイコパス認定が生まれる

前回の内容はこちら


堀元君

ヘッダー画像の木は、その奇怪な形ゆえに撮影したものです。
どういう要因で、根元からループを描くことになったのか。まっすぐに成長する杉などよりこうした奇怪な形状の方が眺めがいがあるというものです。


さて。

「サピエンス全史」です。前回書きながら「どっかで読んだよな、こんな話。なんだっけ」と思ってましたが、それでしたね。

というか、送ってくれた動画を見ると人権の話も出てきており、ここまでの議論の結論が、動画の内容で尽くされてる感があります。


明確に覚えてなかっただけで、ここまで影響を受けていたとは。。。


で、感情の議論。ややこしいですね。様々な状況が考えられ、一般論にしにくい。"愛想笑い"や"挨拶"にはない「感情」という点が問題を複雑にしている気がします。


まず、前回の内容の繰り返し。

人がどのように感じているかは、他人からは分からないのです。その人の言動から推測するしかない。「悲しそうにせよ」と「悲しめよ」は、こちらがどのように解釈しようが、発言した側からはやはりイコールだと思うのです。

悲しんでいる本人のなかでは、悲しみが”あるかないか”という二択と、悲しみを”表に出すか出さないか”という二択が独立に存在するように思われますが、外部からは表に出た感情が全てです。

悲しそうにしていなければ、悲しんでいないと判断するしかない。例の漫画の医師が悲しんでるとは、読者は考えないでしょう。悲しんでる素振りがないからです。


今回解決策①として、「合理性などは棚上げして感情表現を試みる」ことを検討していますが、感情を判断するレパートリーはあまり多くありません。

泣いていれば、一時でも他の業務が手につかなければ、その人は悲しんでいる。泣かなければ、ましてや遊び(受け手のイメージとして。例えばゴルフ)に出かければ、その人は悲しんでいない。

これを判定するのは、あくまでも受け手の他人であり、受け手が持つ価値観・架空の物語によるしかありません。


解決策①は、結局どこまで妥協するかです。

合理性など捨て置いて、相手が満足するところまで感情の表出に付き合うのか。非難をガン無視して合理性に基づいて行動するか。非難をどの程度許容するかともいえるでしょう。

漫画の例に対し、堀元君は「悲しんでることを表明した上でゴルフに行けば」という案を提示しましたが、看護師が「泣いて、ゴルフ(=遊び)をキャンセルしない限り、悲しんでいない」と考えれば、何もしていないのと同義です。

グラデーションすら受け手次第です。「あえて感情を表現しよう」と考えた上で、泣くところまで感情表現を求められたら、疑似サイコパスは、泣いて見せればよいのでしょうか。


医師の例なら、結局彼は正しい対応をしたのでしょう。病院内ではあのスタンスで業務が回っているのですから。たまに非難されても、彼は解決策①を不要と判断しています。

解決策①は、感情表現する側・される側によって要不要すら変わりうる。その点で、やはり本質的ではないと思うのです。(要らないとは言いませんが)


そんな医師でも、非難されれば不愉快になるわけで、何らかの対応が必要とも言えそうです。そもそも看護師は、この問題で苦しんでおり、医師に寄り添ってというより看護師側に寄り添う解決が必要なのかもしれません。

「そんなこと、気にするなよ」と。それが解決策②ではないでしょうか。

そもそもなぜ、こんなに面倒な問題が生じるのか。

解決策②に繋がりますけど、感情にまつわる"架空の物語"が貧相なのかもしれません。感情の大小、感情表現の大小、あるいはそれらの種類についてあまりにも定型的な基準しかなく、それを外れると「おかしい」と認定する/されるしかない。

それこそ、議論の大本にある漫画や、ドラマ・小説などによる「よくあるシーン」ってのがこうした物語を補強するのでしょう。

上記状況の中での、解決策②とは個人的なものにならざるを得ないのかもしれません。周囲の人に対してだけ、「悲しめよ」要求をやめさせる、自分なりの悲しみ方があることを認めさせることはできるかもしれません。個人的な関係の中で、感情に折り合いをつける方法はいろいろありそうです。

ただ、社会全体でこの問題を解決するには、感情への深入りをやめさせるしかなく、それは社会としてどのようになるものか、良く分かりません。掘り下げたら、なぜ感情はあるのかとか言い出しそう。

と、頑張って絞ったつもりの議論を展開してみました。感情は、個人的なものであるために状況によって「あれも、これも」といろんなことが考えられます。無数の命題で議論できそうです。意味があるかは置いといて。

最後に改めて。
「感情は自然に湧き出るものだ」と考えれば、感情の議論は医師の側よりも看護師の側にこそ必要なのだとも感じるのです。

2018年5月4日 結城

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