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自分は運よくここまで来れただけ

※実際に起きた殺人事件などセンシティブなテーマについて書いているのでご一読いただく際にはご注意願います※

「あるごめとりい」という名前のユーチューブチャンネルにはまっている。公開されてる動画はだいたい見た。取り上げているのは世界の都市伝説や凶悪事件。

この知識欲求は今年に入ってから不意にやってきて、まずニュースで見知った凶悪犯罪の記事を読むことから始まり、アマプラでコナンの初期アニメシリーズを見たり、現実に起きた事件や騒ぎのことを調べたり動画を漁ったりしている。この衝動は事件に関わってしまった人たちの動機・人生を知りたいという興味からきている。どうしてこんなことになるのか不安になって検索するとグーグル先生は「怖いもの見たさ」という単語を提案してくれたが、あまりしっくりきていない。

そして今は読書熱にも珍しく火がついていて、積読の山を切り崩していたりもする。昨年はそんなことも考えられないくらいエネルギー切れだったから、症状がよくなってるということなんだろうと思う。同人誌を書き切ってだいぶ経つし、いろんなインプットをしたい欲がようやく出てきたのかもしれない(読んでるのは小説、小説読本、ノウハウ本の類でオカルト系の積読本はない)。

矛盾

ただ、興味本位でネットで調べるそれらはいずれも誰かの命が奪われた凄惨な出来事。刺激的というか大変ショッキングな内容を多分に含んでいるから、健康的とはいえない衝動だとも思う。もちろん不謹慎でもある。

そしてそのような矛盾をフィクションを楽しんでいる時にも思う。
アガサ・クリスティの作品のドラマ、もちろんコナンとかのサスペンスアニメも見てきた。東野圭吾の小説だってヒッチコックのサイコだって敬愛する。
でもそれらの作られたストーリーを進む中で「次は誰が死ぬかな」「誰が殺したのかな」という考えが浮かぶことに、ある時から違和感を覚えた。その感想を読者(視聴者)が会話で共有して楽しむことすらある。「誰かが殺す/死ぬ」というとんでもない出来事を読者が待っているのだ。いくらフィクションの世界、空想上とはいえ不謹慎なんじゃないかと強烈な引っかかりを覚えた。しかし好奇心に抗えず、そのストーリーを楽しんで読後感に浸る自分もいた。

あるごめとりい

いわゆるオカルトに部類されるあるごめとりいの動画だが、惹かれる理由は彼らの姿勢にある。現実に起きた未解決・凶悪事件を取り上げるのだが、どんなに知られた事件でも決してミステリアスな演出で「こわいね」で終わらせるような奇を衒ったことはしない。彼らの視点・考え方で事件にアプローチして、人の価値観や行政の闇など社会が抱える課題を視聴者に考えさせる編集になっている。

昨日投稿された動画は池袋駅構内殺人事件(未解決)を取り上げたものだったのだがその概要が信じられなくて、彼らの数ある動画の中でも一際でかいショックを受けた。動画は1990年代の背景を絡めつつ、100人以上がいた駅にも関わらず彼を助けようとせず無関心だった人々がこの事件の本当の加害者なのかもしれない、という締めくくりをしている。

あるごめとりいで取り上げている題材のほとんどは胸くそ悪い犯罪(そしてたまに清々しいほどの都市伝説)なので気力を使うが、動画として素晴らしい作品を提供されているユーチューバーさんなので興味があればチャンネルのリンクはこちら

運よく助けてもらえた

その動画を見てなにが信じられなかったかというと、私が街中で困っていた時にはほとんどの場合いつも誰かに助けられてきたからだ。

急いでいて荷物が落ちた時は「落としたよ」と財布を拾ってくれる人がいた。わざわざリュックを掴んで引き留められたこともある。横浜駅のエスカレーターに靴の紐が食われて動けなくなったときは、サラリーマンが何人か声をかけてくれて駅員を呼んできてくれた(上りエスカレーターの一番上で動けなくなって座り込んでたので、無視したり「邪魔だな」と文句を言って立ち去る人のほうがもちろん多かった)。乗り込んだ電車で偶然前に座っていた人に「どうぞ」と席を譲られたこともある。これは一度きりじゃなかった。確かに疲労困憊な時だったと思うけど、助けてと声を上げてもないのに。

名前も知らない優しい誰かさん、あの時は本当にありがとうございました。あなたのおかげで助かりました。

でも、なんでだろう?

と考えた時、自分が女性であることが大きい要因なんじゃないかと思った。そして人より痩せ型であること。決して"つい声をかけたくなる"タイプの人ではないし冗談でも魅力的とは言えない風貌だが、健康ではない印象を醸し出しているらしく知らないうちに「心配の対象」になっているのかもしれない。

実際、職場とか見知った人でもとにかく心配の声をかけられることが多く、ちょっと具合が悪い時でもむしろ元気な時でさえも「倒れそう」「風に飛ばされそう」「暑さで溶けそう」などの語彙の限りを尽くされた表現をもって心配される(言った側はまじめに心配してる感じだったので悪意はない。と思う。多分)

男女平等参画が叫ばれる現代だが、人の潜在意識にはやはり平等にはいかない。どんなに平等参画を心がけても性による基礎的な特徴・体力には差があり、それを努力で補い合おうとするとどうしても良くも悪くも色眼鏡が備わってきてしまうと思う。

現に、先に挙げた経験をもたらしてくれたのはいずれも男性だったと記憶している。そして、池袋の事件の被害者もそうだし、「街で困ってる時に誰も助けてくれなかった」というエピソードを聞かせてくれた知人は、いずれも男性(子どもでも)のほうが多かった。

私がこれまで助けられたことはとても有り難いし嬉しく思っている。優しい人はいるのだなという事実自体にも救われたし、私も誰かが困っていたら手を差し伸べたいと思う。
でもふと振り返って考えた時その理由にもし「性」があるとしたら、それは絶対に逃げられない宿命的な陰りを感じてしまって、複雑な心境にもなる。

誰でも被害者にも加害者にもなるかもしれない

話がだんだん外れてきたので別の話題にスッ飛びます。

2008年に秋葉原交差点で無差別殺傷事件があった時はものすごいショックを受けて1か月くらい引きずった。AKBが好きな私にはよく行くなじみの場所だったし、連日ワイドショーで詳細に報道されたこともある。彼の異常な生い立ちがこの時すでに流れていたかは覚えていないが『蟹工船』が注目されたこともあって、就活開始を控えていた学生の私に「非正規雇用で苦しんで自暴自棄になって殺人鬼と化す」という冷酷すぎる一つの現実を突きつけられたように感じた。

事件当時のSNSでもっとも違和感を覚えた感想は、「もしかしたら街ですれ違ったやつが殺人鬼かもしれないと思うと怖くて仕方ない」という主旨の意見だった。

彼らは事件を起こすことで殺人鬼になったのであって、殺人鬼という種類の人間がもともとこの世に存在するわけじゃない。自分が加害者になる可能性が誰しもあることについて恐ろしくなった。このころから「誰が被害者になってもおかしくない」と同時に「誰が加害者になってもおかしくない」と意識するようになった。

あるごめとりいの動画は、そんな昔に抱いた「自分が加害者になる可能性」という巨大な不安を記憶の底から引きずり出してきた。と言っても、10年以上の時を経て当時のモヤモヤをやっと言葉にすることができて大変スッキリしている。

それってすごい身近な可能性なのでは?

そしてまた突飛な発想だが、突き詰めていくとネット上の発言で誰かを傷つけたり誰かに傷つけられたりすることも同じことが言えるんじゃないかと思う。とすると、すでに誰もが被害者であり加害者になっている可能性は非常に高いんじゃなかろうか(そして被害者/加害者が擁護される時、その人の特性が多分に影響している)。

もちろん私だってそうだ。そうすると「自分が加害者/被害者になる可能性」というのは、凶悪犯罪を差し引いてもずいぶん身近なもののような気がして、私はそのことのほうがよっぽど怖くて仕方ない。そして"炎上"を起こしてしまう私でございますので、すでに何人もの被害者がいることも、そんな私に反論を吐き捨てる加害者がいることも承知している。でもそれは決して傷つけることを意図したものではない誰かの主張。

でも、じゃあ一体どうしたらいいのか?

「正反対の意見を持つ人が存在すること」「自分が加害者/被害者になる可能性があること」を受け入れて共存していく。納得できなくても受け入れる。ネガティブ・ケイパビリティというやつが試されているのかもしれない。それしかできないんだと思う。

最後に話を戻す。「教訓を得る」「未来に生かす」「忘れないようにする」という見方をすれば、凶悪犯罪に興味を持って調べるという行為は決して不健全ではない。とにかく一つ言えることは、現実は"劇"じゃない。喜劇でも悲劇でもないから、現実に起きた出来事で悲しみの涙を流す人がいなくなることを願う。


おまけ:例え話

この心情を考えた時に昔から思い浮かべるイメージがある。

もしも地球が真っ二つに割れているとして、その割れ目になっている土地には細い溝が一直線に続いている。その溝は埋まることなく恒久的にあるものとする。その中に何があるのかは解明されていない。紙一枚は落ちる、鉛筆1本はぎりぎり落ちないくらいの数ミリの幅のもの。

蹴とばした石や砂利が挟まったり、忘れ去られた落し物が入ったりもするけど、日常生活では何の支障もない。通行の邪魔にもならないし困ることもない。そしてその間に物を落としてしまったものは、二度と拾い上げることができない。

という世界を仮定して、もしもそんな世界のそんな一直線の細い溝近隣の場所で私が生活していたとしたら、絶対に絶対に怖くて仕方なかっただろう。手を引く母親に「この溝はなに?なくならないの?」としつこく質問するだろうし、他の人々はそんな溝は気にもかけない。その溝の闇に大切な何か(なんだろう?)を吸い込まれてしまったらどうしようと、私は一人で不安に打ちひしがれるのかなと想像する。途轍もない恐怖を感じる。そして今この地球が真っ二つに割れていなくて本当によかったと思うのだった。

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