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死の匂いがする

身体にorgasmの余韻が残る。さっきまで世界に融け込んでいたはずの生温い身体はまだ相手にしがみつこうとして誰にも見つけられないまま真黒に透き通った海の中で音も立てずに溺れている。この空白の時間だけはどうしたってあなたに交わることはないそう決まっているのに。

知らない街で知らない音に溺れて知らない匂いにあてられて澱んでしまったきみとぼくの分身が可哀想だ。ごめんね。

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すべてを捨てて家を飛び出した。
旅をすることはひどく気持ちがいい。

走行音が、鳴り出した。
電車の座席から、微かに人の体温を感じる。
車内に夕陽が射し込んで、風景は紛れていく。向かいに座る人々の姿はシルエットになって、表情や輪郭すらも次第にぼやけていく。

わたしの意識はいま、第1両目。
車内全体が見渡せる位置に目線があって、
そこから一つひとつ、ドアを押し開けて進む。

ちょうど3両目に差し掛かったころ。海に流れ出した重油みたいにドロドロとした空気に包まれた青年が、4人用のボックス席に座っているのが見えた。それは紛れもないわたし自身で、その斜め向かいに同じ年齢くらいの女が腕を組みながら眠っていた。

あれは誰だ、と私じゃない私がつぶやく。
そうだ、わたしはこの女と旅をしていたのだ、と思う。せっかく家出するならちゃんと計画を立てていかないといけないでしょう、と彼女が言ったことを、わたしは思い出す。きみもぼくも繊細なくせして、輪郭線を描くことばかりが上手だよね、と言い返すふりをする。

黒のスキニーに緑色のニットベスト。
まだあどけなさの残る格好をした彼女からは、
どことなく死の匂いがする。

ぼくは彼女をくまなく観察する。ふたつの唇のくっつくところ。噛みしめられた歯と歯のあいだ。閉じられた瞼。重ねられた腿。合わされた掌。握りしめた拳のなか。

電車が微動してガタン、と大きな音を発する。彼女は眠そうな瞼を持ち上げて外の景色を眺めた。眩しかったのか、少し半目になる。わたしもそれを真似して窓側に視線を移してみる。するとそこには、白百合が降り落ちたような銀世界が辺り一面に広がっていた。きみの瞳孔は小さく開き、睫毛の裏には涙が溜まっているように見えた。決してこちらを見ようとはしなかった。音を発した途端ふっと消えてしまいそうな感じがして、結局何も言えないまま、時間だけが過ぎていった。

電車の窓から見える景色は目まぐるしほど移り変わる。人間が老いていく迄の過程を見てるみたいで、わたしは昔からそれが大嫌いだった。緩やかに広がるだんだん畑。存在しない川に架けられた紅い橋。斜面に反り立つツタの絡まった怪しげな建物。

世界のすべては腐敗する。悪臭を放っていく。色と艶を失って、しわとシミが重なって、重い身体を引き摺った先に、幻滅と嘔吐感が待ち伏せている。

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せかいはにがいあじがする。

満月の日を過ごしているときのように今日は、ずっといきがくるしい。身体の中を流れる血液が周囲のあらゆるモノの熱を奪う。全身の毛穴からザクロみたいに紅くて艶やかな雫が、今にも吹き出してきそうな気分だった。

食べものでも飲みものでもいいからなにか口にしなきゃ、とわたしはおもう。

隣の座席に置いていた手提げカバンを膝の上に置く。そうださっきコンビニで水を買ってあったじゃないか、とわたしはおもう。力の上手く伝わらない腕をなんとかもちあげて、ペットボトルの飲み口を自分の唇にやさしく当てる。ゴクリ、と大きな音を立ててゆっくりと、時間をかけてひんやりとした液体が、喉に流し込まれていく。

なぜ彼女はぼくと二人っきりで旅をしてくれているんだろう、とおもう。粧いを他人に見られることが不快ではないのだろうか。ひとはじぶんのもつれた想いについて語り出そうとはしない。着地点が見えないまま自分を不安定に漂わせる生物いきものだ。しかし彼女は危うい姿を人前で晒すことを平気でやってのける女だった。

彼女が僕に興味がないのは、初めから分かりきっていることだった。彼女も僕も、自分に温もりを与えてくれる黄金律だけを求めて生きている。もしくは彼女が黄金律そのもので、僕にはその比率を崩すことを、許されてはいない。

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彼女がわたしの膝を軽く叩き、ここで降りるよ、と囁く。細長い手の感触が残って、くすぐったい。首のあたりから仄かに、香水の匂いがする。

暫くして到着を知らせるアナウンスが鳴った。
座席から立ち上がり、切符を運賃箱に入れて、電車を駆け降りる。わたしは少し距離を置きながら、彼女の後を追う。

わたしたちは駅に併設されているコンビニでお菓子を買って、コミューターバスに乗り込んだ。わたしは荷物を隣の座席に置く。彼女は後ろの席に座り込む。

「すいません、このバスは※に行きますか?」
彼女が声を張り上げて、聞いた。

「ああ、行きます。でもあの辺りはまだ雪が積もっていて、歩けたもんじゃないです。あと1ヶ月も経てば、観光客の方がお見えになるんですが」
「そうだったんですね」

わたしたちは無言のまま、互いの顔を見合わせる。車内に不穏な空気が漂う。

「どういたしましょう。入口の手前までなら、お送りさせて頂くことができますが」

 彼女がどうしようか、と言いたげな視線を送る。ぼくは目を見開き小さく頷いて、行こう、と合図を送る。

「はい、お願いします。行ってみたいです」

ごおお-------。大きなエンジン音が鳴った。バスが住宅街を颯爽と駆け始めたところで、私たちは車窓の外を眺める。錆びれた廃校舎。奇妙なデザインをした看板。伽藍堂がらんどうで人気のない商店街。青い染料のインクが水中でじわじわ溶け込んでいくように段々と、現実と非現実の境目が分からなくなる。ここではぼくが鳴らすどんな音も全て吸収されてしまうような、そんな予感がした。

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「ほんとうはここまでなのですが、入口付近までご案内しますね。」

コミューターバスの運転手が言った。

「つきました。ここです。」
「ありがとうございます。」

わたしたちは口を揃えて返事をした。

「帰りは16時までに※※病院前のバス停に行ってください。ここから2km以上歩かないといけません。時間には、お気をつけて。」

運転手は執拗いくらいに手元の時刻表をじっと眺め続けていた。それほどまでに人の立ち入らない場所に来てしまったのかと、わたしはほんの少しだけ身震いする。

わたしは彼女に急かされながら、バスをかけ降りる。

「どうせなら、このまま帰らなくてもいいんじゃない------------?」

わたしだけに聞こえる声で、彼女がそう呟く。
そんなことできるわけないでしょ。そう言いかけてやめる。

白い布地が掛かったみたいな雪上を歩く。雪が足音を吸収して、妙に静かになる。恐ろしい。ここではどんな言葉でも無慈悲で刺々しく、冷徹なものになってしまいそうだった。ひだり、みぎ、ひだり、と慎重に、足を踏み込ませていく。すると雪はまるで血飛沫みたいに斑々とした泥土でーー汚されていく。わたしは下を向く度に胸が締め付けられて、息が詰まりそうになった。このままでは吐いてしまうかもしれない、と思う。ありとあらゆる臓器の中で言葉の渦が氾濫を起こして、わたしが長年守り続けてきた厚い厚い粘膜をーー細胞の一つひとつを剥がれ落として、それらが一気に私のからだの外へ排出されようとしている。だめだ。どんな手を使ってでも飲み込まないと、いけない。

だって言葉はわたしだから。言葉を失ったわたしという存在にはーー世界には何が残るというのだ。温かく湿った地獄で、もう少しだけ苦しませて。抜け出したくなんて、ないから。

顔を上げると、こちらを振り返ることもせずただひたすら真直ぐに前進している彼女が見える。火の海に向かって歩いているような穀然とした態度で。わたしが手を貸すことなんて必要なさそうで、それがすこし寂しく思えた。

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所々にかんじきの跡が見える。これ以上進むと深く足をとられて地の果てまでごろごろと、転げ落ちそうな気持ちがした。スニーカーなんかで来る場所ではなかったのだと、遅すぎる反省をする。立ち止まらなきゃ。おまじないを唱えるみたいに何度もその言葉を、心の中で呟いていた。

「そろそろ入り口まで、戻ろう----------。」
彼女に声を掛けようとしたその瞬間、碧い光が雪原に反射して、幻想的な世界を作り出した。ぼくは呆気にとられてその場に立ち竦む。動くことができなかった。まるで冷たい水槽の中に身を浸して死ぬのを待っているみたいだった。紗がかかったように、目の前が薄ぼんやりとしか見えなくなって何もかもが、温かさも冷たさもない単色の渦に吸い込まれていった。

まるで錆びた鉄の棒が、お腹に刺さっている。
そんな鈍い痛みが、ぼくを襲った。
ああ、ぼくは死ぬのだな。そう思った。
こんなにも確信を持って何かを信じることは、生まれて初めてだった。

--------そのとき、"何か"が右頬全体を覆った。
その"何か"は触れただけで傷ついてしまいそうなほどに華奢で細く、冷えきっていた。
『まあ?あなたも死んでいるの?』
蔑まれているような、そんな声だった。
心做しか、震えているような気がした。
『意外ね、あなたの心地よい、甘く澄み切った声のなかに、そんな臆病を飼っていたなんて』
『私があなたを桎梏から解放してあげる』
「どうやって」
『あなたの梟みたいにピカピカな夜行性の眼を抉りとって、何も見えないようにするの』
「抉りとった眼はどうする」
『わたしの眼と交換するのよ』

グチャリ、という音が林の中にこだました。
彼女はほんとうにわたしの左眼を抉りとって、自分の眼窩に嵌めた。

彼女は、血の涙を流し続けていた。

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バス停までの果てしなく長い帰路を、交わす言葉もないまま、わたしたちは距離を置きながら歩く。わたしは自分の吐いた息の白さに、驚いている。若草色をした蕗の薹が路傍から顔を出しているのを見て、見惚れている。

わたしたちはなんとか帰りのコミューターバスに乗車した。彼女はわたしの横の席に座る。

「あれ、もっと近い道があったと思うのですが。ここまでくるのは遠かったんじゃありませんか?」
「え、そうなんですか。」

コミューターバスがカーブを曲がる。すると車内は即座に静寂に包まれた。彼女の肩がわたしの肩と擦れる。彼女のもつ微かな生の鼓動が伝わってきて、なんだか照れくさくなる。

「400円です。はいありがとうございます。」
「ありがとうございました。」
「お気をつけて」

コミューターバスの運転手にお礼を行って、駅舎の中に駆け込む。帰りの電車が到着する時間にはまだ1時間ほど余裕があったので私達は丸い木製の座席に腰掛け、ひと段落する。彼女はすぐに

「食べるもの買ってくるね」

そう言って、コンビニに駆け寄っていった。彼女は湯気の立った熱々のハッシュドポテトを買ってくる。そしてそれを夢中で口の中に放り込んだ。ほんとに食べることが好きなんだな、と思った。

僕は立ち上がり、コンビニでレモン味のグミを買って何も言わずに一つ、彼女に手渡した。

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満月の夜。月明かりが木々を照らして、雪面を美しい縞模様に変える。青白い光ブルーライトに照らされた私たちはまるで、水槽の中をふわふわと泳ぐ流氷の妖精。

水族館的沈黙が、周囲を支配していた。
時折何処かからぴちゃぴちゃと何かが跳ね、
ぽこぽこと小さな気泡が破裂する音がした。
透明なガラス容器の中で奇妙な色をした熱帯魚が、岩に隠れたり藻に潜ったりする、その全体像を見渡しているような気持ちがした。

周りに居る歩行者や自動車が、青空を揺蕩う雲のように(気が遠くなるほど)ゆるりと動いているように見えた。透明な膜を何枚か通したみたいに、小さくくぐもった音が残響し続けた。

彼女の体温が、放つ熱が、冷えきった僕の躰をじわじわと包んで、温めてくれているような気がした。じりじりと蒸らされて、色味や苦味がしっかりと抽出されたあとに、一思いに啜られてしまいたい。そう思った。わたしの心臓はその冷たい死肉の中で痙攣していた。動脈を通して孔雀が毒を飲み込み、静脈を通して蚕が繭糸を吐き出していた。

街を歩いていると感じる、まるで嗚咽してしまいたくなる、陰湿な空気や生物の腐敗したような"あの悪臭"を嗅ぎ続けているようだった。身体中に蛆虫が這い回っているような感触がする。早くここから立ち去りたい。誰かパイナップルの彼方まで連れて行ってよ。何かに縋るように合掌し続けていた。

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ヨウコソイラッシャイマシタ。高台に聳え立った旅館の一室に、外国訛りの日本語が響き渡る。オリョウリヲオモチイタシマシタ。座卓に懐石料理が一目散に並べられていく。タベオワリマシタラ、デンワデオシラセクダサイ。部屋中の空気が一気に静まり返る。彼女が、その沈黙を破るように呟いた。

御品書きを凝視し
「これって食べる順番が決まってるんだよね」と几帳面な彼女。
「気にせずに食べようよ」
と能天気な僕。

わたしたちは一思いに、食前酒を飲み干した。

お酒って飲む?
ううん、飲まない。
ねえ、魚に東って書いて、
なんて読むんだっけ。
鰊(にしん)。
それだ。
そういえば明日どうしようね。
電車の時間、しらべてみるよ。

緑色のカバーの付いたiPadを取り出す。彼女の背後に回り込み予定を書き込んでいく様子を眺める。

この時間ならどう。
うーん。朝にお風呂入りたいから、
もう少し遅めがいい。
じゃあこの時間。
そうしよ。

不思議だった。彼女の思考も、声も、慣れ親しんでいたと思っていた。なのに、触れることには躊躇らう自分がいることに気がついた。彼女は紛れもなく女なのだと、知ることが怖かった。魂には、容易く触れられるというのに。

そろそろ寝ようか。
べつべつの部屋で寝るから。
一緒に寝ようよ。
ううん、しない。

わたしたちは距離を取って、別々の(襖に仕切られていない)部屋に布団を敷いて寝る準備をした。あなたの魂を近くに感じすぎるから、身体の距離くらいは離れないといけないんだよ。魂の距離に身体が追いつかないの。嘘を吐いて、自分を騙すような振る舞いをして、魂がギタギタに汚れてしまうまえに距離をとるの。そうしないと私たちの関係が崩れてしまう。何を言っても、何をしても動揺しないあなたが動揺しちゃう。それがほんとうに厭なの、

彼女の眼はテレビを見ているのではなくて、
真黒な夜空を溶かしたような海の底を、ただ静かに覗いているように見えた。

あなたのあえかな乳房の
あの真珠母色の揺蕩がこわいの。
あなたの浄い身体に手をふれれば
どうしても震えてしまうの。
あなたの唇の蠱わしがこわいの。

⿴⿻⿸

目が覚める。雪原に反射した日光のせいで、瞼を開くのに時間がかかった。目を擦る。んん、今は何時だろう。スマホを顔の前に持ってくる。画面には「6:03」と時刻が表示されている。彼女はもう起きているだろうか。ぼくは立ち上がり、彼女が眠る布団の方へと移動する。頭を撫でる。髪をさする。頭上にはBluetoothイヤホンとスマホと眼鏡ケース。起きてる?と、囁き声で聞いてみる。はやいね、と彼女は答える。布団がガサゴソ動いてたの気づいてたよ。うつ伏せのまま、掠れた声で呟いている。わたしよりはやく寝たよね、寝息が、聞こえてた。何秒か無音が続く。彼女は眼鏡を付け、重い腰を引き摺りながらゆっくりと起き上がる。カバンの傍に座り込んで、何かを取り出そうとしている。

お風呂入りにいかないの?
いく。

障子が貨物列車のようにガラガラガラ、と音を立てて走る。私たちは廊下に出て、パンチカーペットの上を歩く。なんだか、真っ直ぐじゃなくて、螺旋を描きながら歩いているような気がした。いや、これは、螺旋じゃない。ぼくは、またぼくに、騙されて、いるのか。螺旋じゃなくて不規則な輪だ。ときにはぎくしゃくと短く曲がり、まるでワルツだったり、ときにはたっぷりと放物線を描いて泥沼を迂回している。

そしてぼくは我慢できる限界を超えて外に投げ出された。向心力と遠心力が釣り合わなかった結果だ。"の内側にかう"と"の外側へとざかっていく"はいつも等しいものでないといけない。そう決まっている。

ぼくはコンクリートの地面に叩きつけられて、何ヶ所か骨を折った。

⿴⿻⿸

幸い男子風呂にはほとんど客が居らず、貸切状態だった。ぼくはシャワーを浴びて、露天風呂へと足を運ぶ。昨晩、黒光りの水飴みたいにトロトロとしていた温泉には白い太陽が灯って、冷灰のようにサラサラと輝いていた。

女子風呂からガラガラガラ、と扉が開閉する音が聞こえた。その音をきっかけにぼくは、ぼくと彼女の旅のこれからを、行く末を、考え始めることにした。しかしわたしはどうしても、物事が良い方向に運ぶと考えることが出来なかった。

しくじったのだ。あの時、森の奥へと歩いていく彼女を、ぼくは引き止めるべきではなかった。あの森の奥には私たちが還るべき場所が、確かにあったというのに。

明るすぎる、と思った。
まだ明るすぎる。
わたしはもっと光を失って、無辺な天を彷徨うべきだ。美しくなくなって、醜くなるべきだ。そしたらきっとわたしは、塵や埃が高密度に集まってできた巨大な星雲になるだろう。そんな、まるで乳のようなぼんやりとした存在のなか。細かに浮かんでいる脂油の球の一つ一つには、心の中の混濁が滲み出している。

それは、タールの染みのようなものだ
それは、緑青のようなものだ
それは、悪魔の眼だ

暗くなりたい
もっと、暗くなりたい

醜く嗄れた声で、なきたい
わたしの死んでしまった肉体なんて
鴉に啄まれて
無くなってしまえばいい

ばらばらになったわたしのすべて
そっと両手で掬いとって
飲み干してよ

⿴⿻⿸

「ただいま。」
部屋に戻って荷造りをしていると、濡れた髪の彼女が帰ってきた。
「あー、気持ちよかった。」
「気持ちよかったね。」
「だって、ここの温泉に入りたくて、この旅館を選んだようなものだから。」
本当に嬉しそうだった。心が踊っているようにみえた。人との関係性に一喜一憂しない彼女の感情の起伏を感じ取るためには、彼女の一つひとつの行動や表情の動き、物事への向き合い方を、事細かく観察するしかなかった。

「もっかい、入ってこようかな」
「そんなによかったの?」
「それもあるんだけど、さっきは人がいっぱいいて、ゆっくり出来なかったの」
「じゃあ、いっておいで」
「うん、いってくる」

彼女が居たときには感じることができた濃密な空気が、何処からともなく抜けていくような気持ちがした。夢から醒めていっているみたいだった。わたしは何だってできる、そんな全能感が次第に無くなっていって、仕舞いには、手の握り方すら分からなくなっていくような、そんな感触がした。

あれ、どこに力を込めればいいんだっけ。

動悸が鳴り止まない。息も荒くなっている。
身体が硬い。胃が荒れ気味だ。眠気もひどい。いつもこうだ。このまま放っておくと、いずれ悪い方へと物事が離散していくことだけが、嫌という程分かっている。なのにその流れを止めることが出来ない。

わたしは鞄の中から、香水の匂いが染み込んだ古本を取り出す。鼻腔を大きく広げて、身体中に染み渡るよう、目一杯吸い込んだ。

⿴⿻⿸

穴を掘っていた。そして、埋めていた。
土の感触を求めていた。

何故かは分からないけれど、できた。

この手で簡単に作り出せた。
酷く冷えた女の手も、裸で血塗れな赤子も。

言葉にしようとしても上手くはいかないのに、何もかもを顕わせた。伝わった。初めは愉しかった。人々はそれを天賦の才だと褒め称えた。だがそんなことは分かりきっていた。なぜなら自分はそのために生まれてきたのだから。

わたしは他の人間とは違う。ただ天明に従っていればよかった。けれど気づけば、視えざるものに導かれるように生き続ける己は、ただの容器と成り果てていた。他者の意思が介在しない、ただ転がっているだけの道具に。

石ころと同じだと思った。

ねえ、土の中では死者が踊っているんだよ。彼女がわたしに教えてくれる。死者たちは、濃褐色の液に浸って腕を絡ませ合い、頭を押し付けあっているんだ。そこには、ぎっしりと浮かび上がってくるものもいれば、半ば沈みかかっているものもいる。彼らは自己の内部に向かって凝縮しながら、しかし執拗に硬い躰を擦り付けあう。微かな浮腫がグジュグジュと音を立てながら破裂し、激しく立ち上った揮発性の臭気が閉ざされた車内の空気を濃密にする。あらゆる空気や音の響きが、蜘蛛の糸のように重々しく粘ついてくる。死者たちは厚く重たい声で囁き続けている。幾重にも重なり合った声は聞き取りにくい。ざわめきが苛立たしい緩慢さで盛り上がったと思えば、急にひっそりして、彼らの全てが黙り込む。

わたしたちは、死者の聲を聞き分けられないといけないんだよ。死者は生者の代弁者。泣くことしか出来ない赤子。最澄と空海。

⿴⿻⿸

そして、とてつもなく永い時間が過ぎた。
電車の窓から見える景色が、紙芝居を見ているように、右から左へと流れていく。雷がたいそう激しく鳴り、雨も酷く降り続けていた。

微かに女の悲鳴の様なものが聞こえる。そう思い、ふと視線を右斜め前に移すと、彼女が死んでいるのが見えた。

そこに横たわっている死体の顔は漆黒の髪に縁どられ雪のように白かった。眼は雪に埋められた青い宝石を思わせる。たおやかな指は腰に当てられていた。

それに比べわたしの面構えは、人間とは似ても似つかない、忌わしい、不快な、ぞっとする顔だった。壊疽のように垂んだこの肉体の中で、彼女と取り換えた左眼だけが、ビイドロのように無数の輝きを放ち続けていた。

わたしは思った。
この鬱くしい左眼の輝きだけはどんなことがあっても守り続けなければいけない。その宇宙蛍のような無数の光の粒は、どんなことがあっても持ち続けなければいけない。それがもし叶うのならば、この身が焼け焦げて、崩れ去ってしまっても構わないと。

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