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ストーリーとナラティブ 編集/なかたつ

むかしむかし
僕は詩というものを書いていて、詩投稿サイトと呼ばれる様々なプラットホームに自分の詩を投稿していた。
たまに故郷を懐かしむようにそういうサイトを開くことがあるのだが、そんな懐かしい風景の中で、当然ながら日々新しい詩がうたかたのように生まれている。
今日はそんな詩の投稿サイトでたまたま僕の心の中に忍び込んできた一つの美しい詩に関するお話。

なかたつ氏の『編集』は一つの章ごとに、ゲームのプロットと作中主体のパーソナルヒストリーが交互に織り込まれている。文章は暑い日に飲む、よく冷えたカフェオレのようにスッキリして読みやすく、そしてどこかほろ苦いような感傷が浮かんでは消えていく。

人によってはこのように「編集」された二つの物語が交互するのを上手く解きほぐせないまま、詩文が終わってしまった、と感じるのかもしれない。そういう人が「ああ、なるほど」と思ってくれればいいな、くらいの意気込みとハードルでささやかな感想を書こうと思っている。

ストーリーとナラティブの違い

まず、この詩に書かれている二つのコードの違う文章を「ナラティブ」と「ストーリー」の違いから解き明かしていきたい。

「ナラティブ」と「ストーリー」の違いというのは僕の知る限り戦後ドイツの記念碑論争あたりから議論の俎上に上がったと認識しているが、現代の僕たちが普通に生きている社会で、最近この言葉がとても身近なものになっている。

特に「ナラティブ」という言葉を従来の「ストーリー」に対置して新たな考え方を創出しようとしている分野として、「ゲーム」「終末医療」「マーケティング」の各業界がある。

上のリンクは本作『編集』のテーマにもなっているゲームでナラティブがどのように語られているか、という記事だが2013年にはこのようなことが言われている、いくつか要点を抜き出して整理をしよう。

・ストーリーもナラティブも共に日本語では「物語」と訳されることが多い

・近年ストーリーよりもナラティブを評価しようという機運があり、ベストシナリオ賞のようなものもベストナラティブ賞のように置換されつつある。

・ストーリーは「作り手」が意図してそのように定めた物語であり、ナラティブは「受け手」がそのゲームの中でどのような体験をしてどのような物語を紡いだか、と人によって異なるものである。

3つ目の点に補完が必要だと思うのだが、ゲームはそもそも人によって攻略する順番が違っていたり仲間にするポケモンが異なっていたり、シナリオライターが意図したストーリーよりも受け手の体験が強調されやすい分野である。

なので、ゲームでは割と早いうちに、「シナリオライターが画一的に定めたストーリーよりも、プレイヤーそれぞれが体験する固有のナラティブが大事だよね」というコンセンサスを得やすかったのだと思う。

これらの違いを簡潔に、
ストーリーは作り手により、ナラティブは受け手により紡がれるもの。
として話を先に進める。

二つの物語

話を本作『編集』に戻そう。

どんな物語にも結末があるというのなら
どんな物語にも編者がいるのだろう

この作品はこんなふうにさり気ない言葉で始まる。そして最初から決まっていたかのように主人公はヒロインと出会い、世界を救うために旅をして、最後にはラスボスを倒すことになる。注目するべきは、その物語の初めに結末についてもう話していること。

こういう示唆は物語をメタ化する。桃太郎という日本の昔話の一番最初が「むかしむかし」ではなく「悪とよばれるものは本当に存在するのだろうか」だった場合を想像してみてほしい。このとき読者は少しだけ、物語全体を俯瞰するように、高いところに浮遊させられる。これをメタ化と言う。

一方で交互に配置されるカッコ内の物語はこんな風に始まる。

(ゲームを買う時は
 兄と共にプレイできるものを探した

この極めて個人的で、ある種、近眼的な物語と、先ほどの少し高いところから眺めるような視点でのメタ化した物語の対比がこの詩の肝である。

便宜的にカッコに閉じられていない物語を、ゲーム内の物語
カッコに閉じられている方の物語を、カッコ内の物語
と呼ぶことにする。

(この詩の優れている点として、ゲーム内物語を語りだす際に、先ほどのメタ化を明確且つ簡潔に読者に示している点が挙げられる。これがあるおかげで読み手は二つの物語の性質の違いを容易く察知することが出来る。)

ストーリーとして生きること

端的に言ってゲーム内の物語は「ストーリー」として理解される。そこには予め決められた結末があり、それに向かって予定調和的に流れていく。ときに乗り越えがたい試練はあるだろうし、耐え難い苦痛もあるだろうが、それは絶対に乗り越えられることになっているし、絶対に耐えられることになっている。

それがロールをプレイするということ。その敵に家族がいようとも関係なく、敵は敵という役割ゆえ主人公に倒される。役割を誰かに編まれたのである。

主人公は「そういう役割」だから敵を倒すし、世界を救う。そこに疑問を差し挟む余地はなく、僕たちはメタ的に、少しだけ宙にういた高いところからこの物語を鳥瞰している。

ところがEndingと名付けられた章で、ゲームの中の閉ざされた「ストーリー」だったものが、カッコ内の手さぐり的な物語と不思議と混ざり合っていることに気が付く。

誰の仲間になるのかによって、僕は役割を変える。それは単なる友達や恋人、時には部下や上司など、それぞれの世界でそれらしく役を演じる。

僕たちはゲームの中の世界の主人公や悪役のように、役割を演じているという。本当だろうか?
ストーリーのなかの登場人物が、その登場人物の役割通りに演じることを、僕たちは期待している。坂本龍馬はいつだって不羈磊落(ふきらいらく)であることを望まれるし、桃太郎が鬼に寝返り老夫婦を惨殺することは無い。この「期待」が実のところ僕たちの世界にも同じように存在することは痛いほど知っているだろう。

僕たちは社会的存在として、自分たちが果たすべき役割を意識して生きてきた。親との関係においては子の役割を、学校では生徒の役割を、周りの期待に応じて何かしらの役割をこなした経験は誰にだってあるはずだ。

そして、これが先ほどのメタ化の正体であるのだが、僕たちはどこかで人生を「そういうもの」として俯瞰し、自分の役割を認識し、それを演じることを良しとしている。ゲームの中の世界でのストーリーの作り手は言うまでもなく作者とかシナリオライターと呼ばれる人だが、現実の世界でそれを担うのは、実のところ自分自身である。

ナラティブとして生きること

一方でカッコ内の物語は何やらとても切実で、俯瞰とは全く逆の、むしろ手探りで触れているような距離感で話される。そして手探りで触れるような距離感で話すからこそ、この物語は「個別」なのである。

先ほど、人は決められたストーリーを生きているという側面もある、という話をしたが、当然ながらそれだけではない。


 兄はドラムを演奏しなくなったが
 僕は兄の姿を追い続けて
 いまだにドラムを演奏している
 兄の視線はもう僕に届かなくなったように
 僕が演奏するドラムの音も兄には届かない)

決められたストーリーの中に全てを編み込まれるようなことは僕たちの生には起きえない。なぜなら僕たちは、時に「役割」と言うものを通じて、世界に出会う。世界に出会うというのは、無軌道で、予め決められたことなど何一つないように思われる、恐ろしいほどの生の多様さに直面するということだ。

自分と親しい関係を結んだ誰かとの役割の中で、その関係がまだ定まっていないことを信じ、僕たちは俯瞰ではなく、手探りで物語を紡ぎ出していく。言葉を替えて言い直すならば、僕たちはこの世界で絶えず「個別」であろうとしている。

編集という題について

ここまで書いてみて「編集」という言葉がこの詩において、おそらく両義的に使われていると感じた。

一方は「役割を編まれる」という言葉が使用されているように、「ストーリー」の中に自分自身の存在を嵌め込まれている、というニュアンスである。そこでは(それこそ編み物の縦糸と横糸のような)多種多様な関係性でがんじがらめになっており、自分ひとりが自由にそこから歩き出すことなどできないかのように思われる。

一方で、僕たちは自分たちの存在そのものの中に世界を編み込んでいく。個別化していく。特に、誰かとの関係性のうちにおいてこそ人は世界と出会うというのは、この生における素敵な矛盾の一つである。ストーリーの中で編まれた関係性のなかにおいてこそ、僕たちは「固有であること」に向かって羽ばたいていく。

ゲームを始めなければ、プレイヤーは主人公に出会うことはできない。そして、主人公が敵を倒して、強くなって、予め定められた結末へと向かうこともできない。ゲームの世界を動かしているのは、プレイヤーであって、プレイヤーの数だけ、ゲームの世界の主人公がいるということだ。

畢竟、人は編まれつつ編むのである。一匹の蝶が突風に吹き飛ばされたとして、彼がただ怪物のような風に無情にも吹き飛ばされているのか、或いはそのか細い翅で風の切れ端を捕まえようとしているのか、きっとそれに答えは無い。


もしよかったらもう一つ読んで行ってください。