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詩を読むことってパズルなの? 謎解きなの?

今回は「ゆうかり杯」という企画をすすめます。どういう企画かといいますとB-REVIEWという現代詩投稿サイトに9月に投稿された詩のうち僕に批評依頼があったものについて、批評を書いていく企画です。それでですね、毎度言っているのですがスローガンがあります。はい

だから今回のゆうかり杯は「詩なんてこれっぽっちも興味のない人に何かを伝えることを最終目標に書く」とここに宣言させていただきます。

ということで、もし現段階で「現代詩? 興味ねえな」と思われたとしてももう少しだけお付き合いくださればうれしいです。

ちなみに今回は個別の作品については語りません。個別の作品に関しては10月の終わりに二作品、二夜連続で音声での批評を予定しておりますのでその折にはぜひ聞いていただけると幸いです。

詩ってパズルなの? 謎解きなの?

もしかしたら僕の批評を以前に読んだことある方はこのような疑問を覚えたかもしれない。参考までにsurvofさんの「うつつ」という詩を批評したのだが、それについて話したい。

最初に言っておくけど詩はパズルでも謎解きでもない。ただこの批評で僕がしていることって割とそれに近かったりする。たとえば、ストップモーションのように詳細に連ねられた何気ない朝の一幕の描写のなかで突然でてきた「埋葬」という言葉への僕の解釈を引用しよう。

さて、結論から言うと、僕はこの詩をこの第5連の描写から「火葬場がまわりきらないほど大量の人が亡くなった何かしらの災害」を想起しました。

詳しくは本文を読んでいただけると大変ありがたいのだが、僕はこの詩を震災に関連した詩として読み解いている。でもたぶん「それってすごく丁寧に読まないとたどり着かないよね? それがわからないと読めないのなら、それって結局パズルみたいなものじゃない」と思われる方がいると思うんですよ。簡単に言うとこうです。「そんな細かく読まないよ」

或いはもっと言うならば、「この詩はつまらない。なぜなら~~~」のような断定こそが批評の為すべきことだという方もいるし、それに関して僕のやっている批評というのはほとんど真逆のものだという自覚がある。それに関して僕は何も言うべきことを持たない。というのも僕にはそういう断定はできないからだ

はっきり言ってしまえば、僕は誰かが書いたものを「つまらない」と断じることが出来ないし、それについてあれやこれや御託を並べるつもりはない。出来ないものはどうしようもない。僕は常に自分がその作品を読めないのは自分が何か重大な見落としをしてしまっているせいだと怯えるような態度でしか作品に接することが出来なくなることがよくあり、「つまらない」と発することは、「自分がその詩を読めない無能である」と公然とアピールすることと他ならないのではないか、という恐れが常にあるのだ。

それに関して伊藤計画が映画批評という形ではあるが、似たようなことを言っていたのを思い出した

そこから何を持って帰るかは、われわれに任されています。逆に言えば、映画を観て得られるものは、その本人の感性や知性のレベルに見合ったものでしかない、ということです。ぼくはしょっちゅう、とっても鋭い人や頭のいい人のレビューを観て、なるほど!と思いますが、そういう人のレビューは大体肯定的だったりすることが多いです(そうじゃない場合もありますが)。

  その人が、同じ映画を観たにもかかわらず、自分よりもはるかに多くのものを映画から持ち帰っているからです。だから、ぼくは見栄っ張りなので、よっぽど自信がある時しか映画をけなさないようにしています。だって、それって、ぼくがその映画の要求する感性や知性に、いかに見合っていなかったか、「足りなかった」かを、訳知り顔で露呈しているのに気がついていない、恥ずかしいことをやらかしてしまっているだけかもしれないじゃないですか。

もしかしたら、これを読んで伊藤計画が映画を見て文句ばかり言う人間に対して当てこすりでこれを書いていると思われる方がいるかもしれないが、それは間違っていると思う。僕も他者が人の作品を駄作と断ずることにとやかく言うつもりはないが、僕自らがその作品を目の前にして何も持ち帰れなかったことの恥を強く感ずるというだけの話であることはご注意されたい。

そのうえで、一つ詩を読む上でのヒントを提示したい。

これは詩に限らず多くの人が陥っている罠だと思うのだが、こと芸術において何か一つの真実があり、それに通ずる奥義を体得したものの言葉が強く力を持ち、凡百の批評家の戯言を打ち砕く、という神話がある。僕はこれを悪しき権威主義と断ずる。

というのも、凡百の批評家がそれぞれに目の前の作品に向き合った言葉を否定できるような哲学や批評理論というものはこの世には存在しないのだ。もし存在するのであれば教えてほしい。一人の人間が目の前にある作品に向き合い心に降り積もった言葉というのは理論的には誰にも覆すことができない力を持っている。

そのうえで詩は謎解きなのか? パズルなのか? そんなにも細かく読む必要があるのか? という問いに答えるのならば、詩は謎解きでもパズルでもないがあなたがその作品に向き合うとするならば、それ相応の覚悟をもって作品に向き合う以外の方法はない。なぜなら、あなたが覚悟と労力の末持ち帰ったその心に残った痕だけがその作品の内奥であり真実であるからだ。

僕も含めて人は凡庸であることを恐れるがゆえに、その作品の唯一の内奥であり真実である言葉をまるで物理学者が世界の方式を解くかのように普遍であろうとする。しかしそれによってその作品に唯一たどり着いたはずの自らの言葉を虚しくしてしまっていることもあるのだ。ときに批評は凡百であることを強制する。あなたが何の変哲もないただの一人の人間であり、そうであるがゆえにはじめて語りうることがあるのだ。

詩を読むヒントというのは凡庸であることを受け入れることだ。

同時に、「詩は一人で読むものではない」ということを受け入れることだと思う。これは振り返れば簡単に思い当たると思うのだが、あなたが感銘を受けた作品のなかに、あなたではなくあなた以外のだれかが真摯にその作品と向き合った結果、その作品から持ち帰ったものの輝きのなかにこそ価値を見出した作品というものがあろうと思う。奥義などない。凡百の批評家がいた。それだけなのだ。

詩を読むことは、古い友人とのもう忘れてしまった約束を思い出すこととよく似ている。その約束はいつだって「この私」においてのみ何かを明かすようなかたちで眠っている。

もしよかったらもう一つ読んで行ってください。