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新年

新年の目標

そうこうしているうちに年は明けてしまった。去年はろくに文章を書くこともできず、38度くらいのお湯でふやけているうちに一年が終わってしまった。火星がとてもきれいだった思い出しか残っていない。病と塵が吹き荒ぶのを鉄格子の嵌った部屋からぼんやりと眺めている、そういう一年だった。

どれだけ社会の構造が変化したといっても人間が糞を後頭部から排泄できるようになるわけでもなく、相も変わらずケツから糞は去っていく。19世紀のアメリカのガンマンみたいに。こんなふうに靄がかかった毎日で足がかりのない生活を続けていると、頼むから置いていかないでおくれ、と叫び出しそうになる。ともかく、僕は今日も今日とて飯を食い糞をして赤ん坊のように眠っている。変わらない事実だ。

こんな風に変わらない事実を確認することで、自分の輪郭がはっきりしていくような気がしないだろうか。ああ、つまり人間にはそぎ落とせる部分とそぎ落とせない部分が存在するということ。去年一年を通してゆっくりと気づいたことに「心って教養の一種だな」というのが挙げられる。語弊はあるかもしれないが、社会生活を送るうえで複雑に発達したルールを人間の脳が勝手に錯覚し内部化しているのだろうな、と。去年は外に出ることもできず、体に贅肉がこびりついていくばかりだったから今年はこの贅肉を少しずつ落としていければいいなと思うと同時に、脳がかってに錯覚した心や、愛や、自我といった余計なものをそぎ落とすことが出来ればいいなと思っている。

SNSが気持ち悪い

最近twitterを見るのがまじでキツい。なんでみんなあんなに怒っているんだろう。多分勘のいい人や怒るのが苦手なひとはとっくの昔にこんなことには気づいていて、知らない間に知らない宇宙にその居住を移したのかも知れない。今地球上には怒れる人々しか残っていないのかもしれない。まじでぴよぴーよ。

ほんたうの言葉症候群

いつか話せればいいと思っているのだけど、僕はほんたうの言葉症候群の研究者である。かつてほんたうの言葉症候群の患者は詩人と呼ばれていたのだが今では憐れな病人である。最初に書いたこととかぶるのだが、ほんたうの言葉なんてものがあるとしたら糞がケツから去っていくことくらいだ。ただマンモスを追っかけて殺していた時代から社会のルールは少しだけ複雑になって、それによってついた贅肉をほんたうのことだと錯覚するようになった。

あなたのほんたうは何ですか? と聞かれてケツから糞が去っていくことですと答えても、もはや彼らは納得しない。彼らは言うだろう、それは生理でありほんたうではないと、ほんたうのこととはあなただけの奥底に眠っているあなただけの輝きなのだ、と。さあ解き放ちましょう、と。

そして少女がリストカットをして涙を流しながら、私は生きていたいんだ、と叫ぶ。彼らは思わず席から立ち上がり拍手をする。中には瞳から流れ出る涙をぬぐうことすらできずに少女をただ見つめることしができない人もいる。これこそがほんたうの言葉だ、ほんたうの心だ。少女もそう言われるとそういう気がしてくる、もはや糞はケツから去っていかないような気がしてくる。少女は叫ぶ、これが私のほんたうだ! と。そして世界中の少女たちが様々な方法で自分に傷をつけ、それぞれ自分なりの輝きを主張する。それをでっぷり太った男達が喝采する。まるでもう糞が未来永劫ケツから去っていかないかのように。

別に君がいいんならそれでいいけど

ぴよぴ―よ氏、ピーチクパーチク氏は滅んだ鳥たちの幻の骨をこの焼け跡で探している。「鳥たちの夕暮れ」「現在の鳥、過去の猪」などの著作で知られる両氏はこの焼け跡にかつてあった鳥たちの楽園を掘り起こし、その楽園には隠された地下室があったことをついに発見した。

ぴよぴ―よ氏はその地下室を一瞥すると、ピーチクパーチク氏の視線を遮るように部屋の前に立ちはだかった。この部屋は燃やさなければならない。ぴよぴーよ氏のくちばしは真っ青になっており、そう呟きながらも激しくカチカチとなっていた。

しばらくの沈黙の後ピーチクパーチク氏は「別に君がいいんならそれでいいけど」と言い放った。こうして知られざる楽園の地下室は忘却の彼方へ永遠に消え去った。なんの話だこれ。

もしよかったらもう一つ読んで行ってください。