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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年/村上春樹 感想

子供のころからずっと不思議に思っていたことがある。何故、大人たちは大人になったのにもかかわらず、小説や映画やアニメーションで延々と人と人とのコミュニケーションについて語り続けるのだろうか。

僕がまだ小さいころにエヴァンゲリオンというアニメが流行って、中学生くらいになるとませた学友が思わせぶりな態度でエヴァンゲリオンを勧めてきた。とびきり上等な代物を入荷したヤクの売人が限られた顧客にだけ彼らの特別な商品ことを打ち明けるみたいに。

当時youtubeもなかったのでVHSか或いは当時でたてだったDVDに焼いたそれを借りて、家のテレビで見た時にも同じような疑問を感じていた。何故、シンジ君は誰かと仲良くなることをこんなにも恐れるのか。ヤマアラシのジレンマっていったい何なのか。なぜそんな限られた人間にしか当てはまらないテーマをこんなにも大々的に描くのか、などなど。

お分かりだろうけど、そういう疑問は生きていくうえで恐ろしいほど呆気なく失われていく。彼らがなぜ人と人とが分かりあうことについてあんなにも執拗に描かなければならなかったのかはっきりとしていく。そう、僕らは生きていく過程で、多分致命的といっていいくらい、自分以外の他者に向き合うということに痛みと怯えを感じるようになる。その痛みと怯えは生来的な本能ではなく、後天的に獲得してしまった如何ともしがたい歪みから発されている。何故大人たちは、あれほどに人と人とが関係を持つことに拘り、作品にしてしまうのか、という最初の問いに答えるならこうなる。それは僕たちが大人になるにつれてどうしようもなく、誰かと関係することについて俄かには信じがたいほどの歪みを抱えてしまうからだ。


少し大げさな言葉を使いすぎたかもしれない。肩が凝るのでちょっと文章の緊張を落として、イージーに続けたいと思う。テイクイットイージー。できればこの文章を読んでくれるあなたも肩の力を抜いて読んでくれると助かる。

最近、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだのでその感想を書こうと思って上の文章を書いていた。

そしたらなんだか、厳めしい文章になってしまいそうだったので急いでブレーキを踏んだところだ。好きな本について語るときはいつだって親密な友人と過ごすときみたいに居心地のよい沈黙——きっと本人同士は黙っているつもりなんてないような——に包み込まれた状態で、半分溶けたバターに切れ目を入れるみたいに何気なく、「それでね」と沈黙を破るところから始めたいものだ。

序盤のあらすじ

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は主人公多崎つくるが10代の最後に地元名古屋の5人グループから放逐され、自死の希いのなかを彷徨うところから始まる。とはいえそれは多崎つくるにとっては過去の出来事であり、回想である。現在の彼は36歳であり結婚はしていないが2歳年上の恋人、沙羅がいる。10代の最後に不可解にグループから放逐された彼は、今もその時の記憶を鮮明に覚えているのだが、その出来事に決着をつけることもできず、忘れたい過去として胸の奥底にしまって、そして大人になった。

恋人——とはいえまだ数回目のデートでセックスは一度きりだ——の沙羅に多崎つくるは今まで付き合ってきた女性とは違うものを感じている。「身体の中のどこか微妙な部分に隠された、押さえられると彼の内部で何かが作動し、特別な物質が体内に分泌されるスイッチ」をどこからともなく押さえられている感触があった。と多崎つくるは形容している。だからなのか、多崎つくるは普段絶対に人に話しはしない、10代最後の楽園追放の話を彼女にすることになる。「乱れなく調和する共同体」ないし「全ての辺と角が等しい五角形」のような地元名古屋での5人グループと、そこから自分が突然に理由も告げられず「切られた」過去の話をする。

沙羅はその話をとても興味深く思った。そして多崎つくるとのセックスの際に、彼女が覚えた不安のことを考えた。その日のデートの最後に沙羅はつくるの部屋に誘われるのだが、断ってしまう。その後仕事に忙しい日々を過ごして再び多崎つくるとのデートの際に彼女はつくるに抱かれた時に感じたその不安について語る。「あなたに抱かれているとき、あなたはどこかよそにいるみたいに私には感じられた」と。

決して多崎つくるが心ここにあらずといった具合だったわけではない。ただ多崎つくるの中には関係を続けていくうえでどうしても修復してしまわないといけない傷のようなものが存在すると沙羅は感じた。それは言うまでもなく10代の最後に理由も告げられず放逐された名古屋の友人たちのことだった。かくして、多崎つくるは事件から十数年後の今日にかつて共に、完璧に調和した乱れのない五角形を為していた4人の友人を訪ねるために名古屋に赴くことになる。
言い忘れたけど、その4人の友人は偶然にも苗字に色彩を表す漢字を持っていた。赤松、青海、白根、黒埜。これがタイトルの「色彩を持たない多崎つくる」の由来であり、彼らを訪ねることが「巡礼」であることは言うまでもないだろう。

序盤あらすじ終わり


こういうことは本来最初に書いておくべきことだったかもしれない。これまで十数冊程度村上春樹の小説を読んできたのだが、僕はそのなかでもこの小説が一番好きになってしまった。ただ他にもそういう人がいるのか確かめてみたくなり、ネットで色んな村上春樹ファンが挙げている「村上春樹ベスト10」なんかの企画をちらっと覗いてみてもこの小説は1位どころか10位圏内にも入っていないように見受けられた。

当時、円熟期といっていいだろう村上春樹の文章は、それまでの小説のように殊更エッジが効いているわけでもないように感じるし、抉るような鋭さもないように感じる。けれど全体に散りばめられた比喩や寓話がひとつひとつ魚の鱗のように有機的に機能して、闇の中をのっそりと泳ぐ巨魚のように力強くて、表面のぬめぬめとした感触があった。それはなんとなく僕たちの意識が何かを捉える動きそのもののような気がして、心地よさとは違う真に迫ったものを感じずにはいられなかった。

ただ文体とは別に、この本のテーマが僕に何かを語りかけてきた、というのが本作を僕が特別気に入った理由だと考えている。あらすじでも軽く触れたけど、本作は人間関係においてふいに負ってしまう傷についての話である。そして歳月とともにそれを覆っていく瘡蓋についての話であり、その瘡蓋に隠れて流れ続ける血の話でもある。最初に話したエヴァンゲリオンの話とも繋がるのだが、僕はあるときまで人と人とが関係を持つことなんて本当に簡単でありふれたことだと感じていた。そしてそのありふれたことが突然、たとえばジャンプして空中で3回転と5回ひねりをするみたいに、自分とは全く縁のない、ほとんど不可能に近い行為に変容してしまうことを身をもって経験したことがあるし、たぶん多くの人が5歳のときよりも人間関係の悩みは増えているだろう。僕が経験したことをここに書くつもりは全くないけど、それを仮に書こうと考えただけで、僕は胸のむかつきのようなものを抑えきれないし、だんだんと脈拍が速くなっていくことを知覚する。視界はうっすらと靄がかかったようになり、眩暈のようなものに苛まれる。これが極端な経験なのかどうかはわからないけど、すくなくとも僕は本作で多崎つくるが負っている傷についてとても共感してしまうし、それ故に沙羅が感じた不安——セックスをしている最中にも彼がここではないどこかにいる気がする——を考えすぎと笑い飛ばすことが出来ない。

きっと、拒絶されることへの恐怖と怯えからそんなつもりは全くなくても違う自分を演じざるを得なくなってしまうのだろう。それが本当の自分でなければ、仮に拒絶されたとしても、誰かを意図せずに傷つけたとしても、いくらでも自分を慰めることができる。そういうふうに僕たちは生きていく中で必要な処世術を選択し実行していく。実際のところそれは殊更欺瞞に満ちているわけでもない。ビッグマウスのメキシコ出身のボクサーをみて素直でないことを憐れんだりもしないし、バーの片隅で強い酒を煽る無口な探偵——仮にそんな典型的な人物がいたらの話だが——をみたら彼はむしろそういうスタイルを貫くことを望んでいると感じるだろう。けれど28日に一回月が満ちる夜があるように、生きていると自分の本来の感情を、自分の感じたまま言葉にしなければならない瞬間が訪れてしまう。それはある種の処世術を選択して生きていた人たちにとっては信じがたいほど困難な瞬間なのだ。けれどそれは訪れてしまう。多崎つくるは36歳で月の満ちる瞬間を迎えたけど、僕の場合はもう少し早かった。経験則に基づいていうならば30を過ぎたあたりにその瞬間はふらっとやってくる。この物語はそういうタフな瞬間をとらえた物語である。仮にそんなめそめそした話をタフと形容していいのならばの話だけど。

この小説の最後で全ての問題が片付いた暁に、沙羅に電話をかけるシーンがある。残念なことに、全ての問題を片付けるためにスコットランドに向かう前日、多崎つくるは沙羅が自分とは違う男性と仲睦まじい様子で歩いている姿を目撃してしまっている。よくある話だ。人によっては物語の最後までこの件の真相が明かされないことに歯痒い思いをするのかもしれないな、と思う。或いは多崎つくるが超越した数々の困難の最後にこのような仕打ちが待ちかまえていることに悪趣味な残酷さを感じる人もいるかもしれない。実際のところ僕も読んでいて、最後はどうなるのだろうか、という想像を働かせながら最後のページを捲った時、まずその結末が明かされていないことを不審に思った。そして最後の言葉を裏返しながら、どこかで自分が重大な何かを読み落とした可能性について思いを巡らせて、最後の最後に気が付いた。これは多崎つくるが沙羅をしっかりと摑まえることが出来るかどうかの物語ではないことに。これはどうしようもなく生きていくなかで、どうしようもなく傷ついて「命綱」なしに誰かと親しくなることなんてもう不可能になってしまった人たちの物語だ。彼らが命綱から手を離して、目の前の相手に向けて真っ直ぐその手を伸ばす物語なのだ。

もちろんすべてが素晴らしいわけではない。同時に胸の痛みがあり、息苦しさがある。恐れがあり、暗い揺れ戻しがある。しかしそのようなきつさでさえ、今は愛おしさの大事な一部となっている。彼は自分が今抱いているそのような気持ちを失いたくなかった。一度失ってしまえばもう二度とその温かみには巡り合えないかもしれない。それをなくすくらいなら、まだ自分自身を失ってしまった方がいい。
村上春樹. 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫) (Kindle の位置No.4594). 文藝春秋. Kindle 版.


とても分かりやすいが故にあまり多くを語る小説でもないので、一通りの感想はこれで終わりにしたい。案外僕のように、この小説を必要としている人は多い気がするので、こうして何かかたちに残しておきたかった。これを期に読んでみたいと思ってくれる人がいたらうれしい。

また
本作には色彩を持った4人の過去の友人とは別に、大学時代に知己を得る灰田文紹という男が登場する。彼についてはまた別の機会に何か書ければいいなと思っている。





もしよかったらもう一つ読んで行ってください。