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夏の火花【小説】

「ゴム買ってきてよ、コンビニで」

暗い部屋に男の声がそっけなく響いた。女は「え~~~」と気だるげにベッドの上でごろんと綺麗な一回転を決めた。皺にならないようにスカートを脱いだばかりだったから、もう一度履き直すのが面倒くさかった。部屋の薄汚れた白い壁に女がスカート履いているシルエットが上映され、男は眠たい目を擦った。

仮に一年前だったら──
玄関のドアが閉まった時、男はIFの話を考え始めた。もし一年前だったらコンドームを買いに出かけたのは自分だった気がした。それよりも、コンドームの残りが無くなる前に近くの薬局で予備を買っておいたはずだ。男はもう一度眠い目を擦った。昼間の講義であれだけ寝たはずなのに、と自分のカラダに不満を覚えた。

仮に一年前だったら──
後ろ手で玄関のドアを閉めたとき、女はIFの話を考え始めた。もし一年前だったら、スカートを履いているとき、あんなに重苦しい気分にはならなかったような気がした。ああ、でも。もし一年前だったらシャワーを浴びていたはずだから、こんなふうにじめじめした夏の夜に背中に汗をかいて今ごろ嫌な気分になっていたかもしれない。夏の終わりに先がけて鳴き始めた秋の虫たちの声が、暗い夜の空に溶けていく。それを聞くのは何とも言えない気分だった。
コンビニストアの自動ドアが開いて、光でいっぱいの店内が少し眩しかった。そういえば、と女はふと何かを思い出した。キスをするとき、お互いの歯がぶつかり合って笑ってしまうようなことはここ最近めっきりなくなったな、と。

「おかえり」

玄関の扉の蝶番が軋んで、その声が響くまで10秒くらいの間があった。それでも女はドアの前から動かず、男が何かを感じ取って布団から出てくるのを待っているみたいだった。

「どうしたの?」

「これ、買ってきちゃった」

男は一瞬、小学生向けのコミック雑誌かと思ったそれがコンビニでよく売られている手持ち花火のセットだと気づくまで少し時間がかかった。それになんでそんなものを買ってきたのかよく分からなかった。

女も同じく、なんでそんなものを買ってきたのかよく分からなかった。夏の終わりに売れ残った花火を見ていたら、それはまさに自分に買われるべき商品のような気がしたのだ。

二人は静かな声で一言か二言何かの言葉を言い合った。月明りが少し錆びたアパートのドアに二人の姿を上映した。ドアが「きぃ~~~」と間抜けな音を立てて閉まったと思うと、もう一度勢いよく開き、男が中に入っていった。どうやら風呂場においてある掃除用の小さなバケツを持っていく魂胆らしい。男がバケツを持ち出すと、ドアが再び間抜けな音を立てて閉じていった。暗闇に包まれた部屋の中では手提げ袋の中でコンドームの箱とレシートが奥の方にひっそりと収まっていた。

「あっ」

バケツに張った水が遠心力を頼りに少しだけ逃げたした。けれどこんなに暑苦しい夏の夜にそんなことを咎めるものなど誰もいなかった。男はジーンズのポケットを探って煙草をとライターを取り出した。女は手持ち花火のセットを台紙から外し終わったところだった。

静かな夜の淵に沈んでいた公園は唐突に灯された小さな火に少しだけ驚いたかもしれない。その後に続くパチパチと何かがはぜる音と、その背後を「さぁーーー」と流れるホワイトノイズのような音は起き抜けのまだ働かない頭に久方ぶりの雨が荒野に降るように優しく馴染んでいった。

「ちょ、見や。赤から緑になった」

「ほんとやね」

「子供んときはこんなんじゃなかったな?」

「何言ってんの。昔からこうだよ」

「そっか? ほら後ろ」

「あ。ぽん吉も来たんやね」

様々な色に移り変わる炎に反して影はどこまでも黒く二人の背後にもったりとその身を伸ばしていた。その二つの影の間、バケツのこちら側に白くて大きな猫が不思議そうに二人の営みを見つめていた。

ぽん吉と呼ばれた猫は一通り見終わるとその場に身を横たえて毛繕いをはじめた。どうやら目の前の二人が今日は餌をくれるつもりがないことに気付いたらしい。その白い毛並みが時折赤や緑や青に染まり、だんだんとバケツの中に燃え差しが増えていった。

「線香花火もあるよ」

「それはいいや」

「えー。なんで? やろうよ」

「なんか、いかにもって感じせん?」

「じゃあ一本だけ」

「わかった。一本だけな」

公園の時計がちょうど12時を差したとき、二人と一匹の姿はもうどこにもなかった。公園は再び静かな夜の淵に沈んだ。沈んだのは公園だけではなく、あたり一面の住宅街も等しく静かな夜の淵に呑まれつつあった。街灯が消えた。窓から零れる明かりも段々と少なくなっていく。


ぽん吉と呼ばれた猫が色の褪せた緑色のドアの前で甘い声で鳴いた。半年前、ここには一人の男と一人の女が住んでいて、こうして鳴くと食べ物をくれることがあった。女が出ていった後もしつこく鳴くと男が出てきて面倒臭そうにシラスの乗った小皿を持ってきてくれたものだ。やがて男もいなくなりこのドアが間抜けな音を立てて開くことはめったになくなってしまった。

ぽん吉はやれやれといったふうにかぶりを振り、その脇にある階段を登った。同じくらい色の褪せたドアの前で鳴いた。しばらくたつと年配の気のよさそうな女が煮干しを乗せた小皿をぽん吉の前に置いた。ただし、その女は彼のことをぽん吉ではなく「さらさちゃん」と呼んだ。




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