見出し画像

詩の良し悪し 鈴木歯車/チャイムを止めるな! ふじりゅう/えかきうた

こんばんは。芦野です。
今日はこちらの企画をすすめたいと思います。

はじめていらした方に説明すると、9月にB-REVIEWという詩の投稿サイトと連帯して、希望があったものに僕が批評文をつけるキャンペーンをやっていました。10月になったので批評を書き始めているのですが今日が二回目です。前回はこちら

そして、「詩の批評」という最も人の興味を惹かなさそうなテーマをやるにあたって、僕は自分にひとつだけミッションを課しています。引用します。

だから今回のゆうかり杯は「詩なんてこれっぽっちも興味のない人に何かを伝えることを最終目標に書く」とここに宣言させていただきます。(中略)…今まで詩なんか読んでこなかった人が「あ、おもしれーじゃん」と思ってくれたら最高だな、って。

ということで、ミッションと言うのは詩なんてこれっぽっちも興味のない人が読んでも面白いと思ってもらえるように書く、ということです。もしお付き合いくださればありがたいです。

詩の良し悪し


さて早速脇道に逸れたいと思うのですが、今日のテーマは「詩の良し悪しってどうやって決まるの?」です。

なんでこれについて話しておきたいと思うかと言うと、たまに驚きの質問をぶつけられることがあるからです。その質問と言うのが。

どういう詩が良い詩なんですか?

というものです。これは僕としては最初はちょっと理解しがたい質問だったんですね。というのも「どういう牛丼がおいしいですか?」とか「どういう景色がきれいなんですか?」とか聞かないじゃないですか。僕はその質問の答えって今もそうだけど「あなたが良いと感じたものがあなたにとって良いものです」としか答えようがないと思っていたし、なぜそれを聞くのかよくわからなかったんですよね。

ただ最近になってちょっと違う考え方ができるようになってきて、例えば煙草を吸わない人が「どういう煙草がおいしい煙草なんですか?」と聞くのはとてもありがちで、その感覚も理解しやすいものだなあ、と思い「どういう詩が良い詩なんですか」というのもどちらかというとこれに近いのではないかなと考えるようになりました。

これを整理するとつまり「詩」は「煙草」のように普段触れていないと良さが分からないもの、と考える人がいるんですよね。

さらに言うと、それは「詩」というものがなにやら自分にはよくわからない「採点基準」で良し悪しの判断がされていて、「自分の感覚」で「これが良い」と言い切ってはいけないような空気感がある。

ということなんじゃないかな、と思いました。煙草ももし自分にたいした喫煙歴がなければ「ハイライトのメンソールのあの控えめな清涼感がメンソール好きじゃない人にも刺さるんだよねー」とか言えないですもん、ちょっとしり込みしちゃって。

詩も同じで、これはよい! とか これはあんまり好きじゃない とか よく知らないで簡単に言い切ってはいけないようなそういう空気感を感じる人がいるのじゃないかな、と思うわけです。

文学史なんて忘れよう

でも僕はそれでも「詩は自分の感覚で好きとか嫌いとか言いきっていい」と思います。先ほど「詩は自分にはよく分からない採点基準で判断されていて」と書きましたが、これをざっくり言うと「歴史」といいます。もっと具体的に言えば「私はこれが良い詩だと思うのだけど…」とSNSや詩の投稿サイトなどで思い切って発言したとき「そんなもんは文学史的に糞だよ」「もっとちゃんと色々な本を読め」と言ってくる人がいます。僕はそんなものを相手にする必要はないのではないか、と思うわけです。

「文章」というのはとても直感的で良し悪しの判断しやすいものだと僕は思っています。もし詩にあまり触れてこなかった方が「自分詩とか分からないので」としり込みされて、自分が思ったことを率直に言葉にできなくなるのなら、その文化は死にます。だから僕はどんな作品であれ「私はこう思った」と率直に発することが全ての文芸の土台だと思っています。「私はこう思った」の中にもしかしたらそれまでに読んだ本との関わりで化学反応的に導かれる感慨があってももちろんいいでしょう。でも「私は良いと思った」を「この作品は文学史的にこのような価値があってウンヌンカンヌン」と言い換えるのはやめましょう、と言いたい。「私はこう思った」が全ての土台であり「私はこう思った、その理由はこうだ」と簡単に言ってのけることのできる空気がその文化を健全にします。

だから文学史なんて忘れましょう。何度も言いますが、それまで読んだ本によってその作品がより豊かに読めることはもちろんあります。けれど、本来文章はすべてのひとが触れる機会があり、それを読むということ、そこから何かを受け取ることに何ら難しい理屈も歴史もいらない。「私はこう思った」ここから始めればいい。

鈴木歯車/チャイムを止めるな!

さて長くなりましたがそういう土台に立ち返ったうえで今回の作品を見てまいりましょう。

エントリーNo.1
ハンドルネーム:鈴木歯車
タイトル:チャイムを止めるな!

そういう意味でこの作品はあまり詩なんて読み慣れていない方に「あ、こういうのでいいんだ」と思っていただくにはちょうどいいものであるかと思う。

作品は架空の映画「チャイムを止めるな!」のwikipedia風の記述になっていて「詩」という少しお堅いワード僕なんか今でもちょっと肩の力が入るのだけど、この作品は「まあまあ」とチャーミングな笑顔で僕を椅子に座らせきっと飲みやすいブランデーかなんかをふるまってくれる。僕は酒が飲めないから詳しくは知らないけど。

そうして何の気負いも、ちょっとした心のピリつきもなく、この文章を頭からいただく、その段になって、この作品がとても困難なことに挑戦していることに気付く。その困難と言うのはこの作品が「文学的」な香りを一切纏っていないことからくる困難なのである。

皆さんは「文学的な香りのする糞」を読んだことはありますでしょうか。それは文章としては紛れもない糞でしかないのに、文学的な香りがするというだけでなんだか周りの人間がそれを持て囃す、という場面に僕は何度か遭遇したことがあります。つまり、「文学」とか「詩」ってどうしようもなくつまらない作品を紛らわす香水のような役割を果たすときがあります。

そういう意味で本作品が挑んでいるのはそういうフワっとしたものを全部取り去ったところに残る実体と実体のガチンコ、ストロングスタイルの殴り合いのようなもので、純粋に面白さだけが問われてくる。これがこの作品が挑戦している困難。要するに何のごまかしも効かないということ。

そういう裸一貫なところに拍手を送りたい気持ちになりつつも僕は最初の「作品概要」のところがどうしてもいただけなかった。ちょっとだけそのことについて考えたいと思う。

後に触れるが、この作品の「ストーリー」つまり第二章はとても面白いのだけど、第一章の「作品概要」つまり「チャイムを止めるな!」という架空の作品についての概要説明がどうしても「宙ぶらりん」な印象を受けるのだ。これは架空の作品や世界について語るときのテクニックなのだけど、今、読み手がいる現実世界との接点を出来るだけ多くすることで、「あ、そういうことなのね!」という興味を惹きつけるテクニックがある。例えば「ウォーリーを探せ」のアンサイクロペディア(架空の百科事典)の記述から引用

近年、漫画家の楳図かずおの邸宅建設に対して「景観を損い、静かな住環境が破壊される」として近隣住民による建設反対訴訟が提起された(最終的に楳図側が勝訴し当初の計画通り完成)。しかし、真の裁判理由は、計画段階で邸宅の外観を赤白の横縞の塗装にすることが公表されたため、同様の服装であるウォーリー氏の発見に支障が出ることを懸念した日本政府、特に国家公安委員会の指示により、同邸宅から遥かに離れた住民を名乗る工作員が原告として裁判に及んだものである。この裁判騒動により、日本政府は同邸宅近隣の対ウォーリー氏監視体制を整える時間稼ぎができたのは公然の秘密である。

とか。
あとSFとかでも多用されるテクニックで、いまたまたま伊藤計画のハーモニーを借りてきて家にあるので引用しますが、

「昔はね、体を買ってくれる大人がいたらしいんだ。多少のお金でわたしたちみたいな子供とのセックスを求めてた大人たち。貧乏でもないのに何の罪悪感もなく自分の方からからだをセックスの道具に売っていた女の子たちがいっぱいいたんだって。買うほうも買うほうで、そんなふうに堕落した大人が結構な数いて、実際に町中のホテルでお金を渡してたんだって」

伊藤計劃『ハーモニー』 2008年 早川書房 p13

これもそう。あくまで一つの要素に過ぎないのだけど。
架空のことについて語るとき、読み手の今いる世界にどれくらい接点を設けることが出来るか、というのはかなり重要な要素で、本作はどうしても単語単位では接続があるけど「よく書けている」と思うことはあれど、本当にありそうで「惹きこまれるほど面白い」というものではなかった。もちろん作者が「よく書けている」を目指していて「惹きこむほど面白い」ものなど書くつもりはなかったのなら大変申し訳ないのだが。

一方でストーリーは、かなりの粗が見え隠れするのだが(細かい設定の漏れ)僕は好きだった。どこかで見たことがあるようなお話だし、とても青臭いのだけど、例えば

何かあった時のために、田中は自分の名刺を何枚か、ドアポストにねじこんで職場へ戻る。

この描写を読んで、僕は作者がこの作品を映像から書き起こしているのか、とびっくりした。多分スマートに書くとしたら、「名刺をドアポストに入れ」で済ます描写である。もしかしたら、その二つに何の違いがあるのか? と問われる方も多いかもしれない。確かに細かいところであるがよく考えてほしい、もしこのストーリーの記述が、ただ単に筋の簡易な説明であったら僕たちはこの作品を読んで、「誰かがこの映画をいつかの未来に見て、そのときの感情の呼び起こりや様々なことが入り混じりながらこのwikiを編集したのかもしれない」と1mmも思うことが出来ないと思う。僕は少なくとも架空であれど、この映画に何かを感じてこれを編集した誰かの存在をどうしようもなく想像したし、そういう「存在」なくして、本当に読ませるものなんて書けないと思っている。
だから実際それが「どこかで見たことがあるようなお話」であるかどうかなんて実のところ関係なくて、もしこの「ストーリー」の部分を面白いなと感じている人が僕のほかにもいるとするならば、それはその「存在」の息吹ゆえではないか、と問いたい。

ふじりゅう/えかきうた

エントリーNo.2
ハンドルネーム:ふじりゅう
タイトル:えかきうた

2作目はこちらです。
ふじりゅうさんの「えかきうた」一作目とは違って文学の香りがしますよね? もちろん文学の香りがしてもそれが糞であるわけではありませんし、文学の香りのする面白い文章だってたくさんあります。

でもって、僕の話をここまで聞いてくださった方がもしこの作品にざっと目を通したときに抱く感想ってたぶんこれですよね。

「あ、ふーん、とっても文学な感じー」

それで、僕は多分それって結構あたっていると思っていて、この作品の弱いところってまさに、その「ふーん」で済まされちゃうところなんじゃないかな、と言うのは、まず最初に言っておきたいと思います。

それでですね、そのうえで僕はこの作品楽しめたのですよね。というのも僕の読みはかなり親切な読みであって、多くの人が途中で読むのを辞めてしまうだろうな、というところをヒットエンドランと偽装スチールを駆使しながらギリギリのところを繋いでいった感がめちゃくちゃあります。今回は実況中継風に行きましょう

(指でなぞったアルバムの絵描き歌
(モノクロのほっぺがエコーする畳の角
(それは堕落
(あれはギンヤンマ
(黒の鉛筆の落書き

前回、survofさんの時に皆様にお伝えさせていただきました、「要すればいいよ」をこういう時こそ使いたいのですが、これはっきり言って訳が分からなかったんですね。「モノクロのほっぺはエコーしなくないですかあああ?!」とよくわからない感情を枕に顔をうずめて3度ほど叫んだことをここに告白させていただきます。

空蝉をからかう彗星の真下、
自由帳という物質が力づくで開いた扉、
の真下にこびり付いた足跡が

「空蝉をからかう彗星の真下??はあ!!ふざけんなこのやろう!」とよく分からない感情を枕に顔をうず(以下略

取れない、
棚の木霊・・・
       (・・・こだま・・・
カナ・カナ・カナ・・(カナカナ・カナカナカナ・・・

ほ、ホラー映画かな…?
というわけで僕の心はもうほとんど砕け散ってしまい、これが投稿されたURLに参加者がつけておられるコメントで皆様が揃って「技巧的ですね」と仰られているのを見て、さらに砕け散るマイハート。「技巧的っていう新しいディスりがこの国では誕生したのかな?」と小一時間グーグル先生に教えを乞う始末。日も暮れていくなか目を落とした先に最後の一文がちらつく


閉じたら大人の私の足。

感動ですよね。だって意味が分かるんですもん。だって、閉じたら、足があるんですよ。こんな些細なことで涙があふれるなんて知らなかった。頭の中では高橋ジョージが「ロード」を歌っています。やった、意味が分かった。最後の最後だったけど意味が分かった。そんな喜びが体中を駆け巡ったところで本題行きましょう。

tips  意味が分かるところから読む

ここからは真面目に行きますが、survofさんの時にやった、要するにで読んだ後の「転換部を読む」のところ、この作品で言うと、意味が分かるところになるのですが、ここから読みます。


閉じたら大人の私の足。

どんな光景を思い出しましたか。僕は「何かの本を脚を揃えたその上で開いていて、閉じたら自分の足が見えた」という光景が浮かびました。「大人」と強調されている、ということは本の中にいたのは「子供」の自分ということになりますよね。

例えば最初のところ、僕が枕に顔をうずめたところは、ひょっとしたら子供の時分の写真を眺めているのかもしれない。「エコーするほっぺ問題」は写真の中に収められた幼いころの「私」の凶行の結果であるかもしれない。幼いころの私が畳に落書きをしたのかもしれない。そんな感じで想像力を膨らませていくと、なんだか読める気がしてきますよね、不思議と。

空蝉をからかう彗星の真下、
自由帳という物質が力づくで開いた扉、
の真下にこびり付いた足跡が

例のこの個所、絶対に読めないと思っていたんですが、そして作者の意図とは確実に異なるのですが。僕はこれ「えかきうた」として読むと面白いぞ、と興奮していました。え??! って皆さん思ってるでしょうが、いいから聞いてください。

まーるかいってちょん! まーるかいてっちょん!

えかきうたで僕達が想像するのはだいたいこれです、大山のぶよボイスです。ぼくも小さい時分はこれをやりました。このテンション、このノリで

空蝉をからかう彗星の真下

ふと、口遊んでいる僕がいました。そしたら面白くなっちゃって、いったいこれでどんな絵が書けるんだ? とか無性に気になってしまった。やたら壮大な絵が描けそうな気がします。

すみません脱線しました。でもこの作品、古いアルバムの中で一人自由帳、またはそれを越えて畳の上でえかきうたを楽しむ幼いころの自分と、アルバムを指でなぞる現在の自分という二重構造を描いていることが朧気ながらわかってくるんですよね。

これ本来この描写をだらっと続けていたら絶対に解釈不可能だったものを、最後の「閉じたら大人の私の足」という一言だけで、想像可能なものに変えてしまうという、面白い構造を持っているということは是非伝わればな、と思います。

でも、何度も言いますがこの作品の弱さは、そこまで読む人そうそういないぞ? と言うことに尽きるわけです。

終わりに

最初に述べたように、詩はその人がどう思うかが全てでいいと思います。僕の感想を読んで、皆様が「あ、そういう読み方もあるのね」と思ってくれたらもちろんうれしいですけど、基本的にはあなたがどう思うかでまず一度読んでみてください。

もしよかったらもう一つ読んで行ってください。