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わたしたちが信じるべきは、違和感の裏側だった。 | 現実とスピリチュアリティの間で 𓂃 𓈒𓏸


この間、ずっと描きたかった文章が、
ようやく描けたと思った。




その人は、確かに世間的に分かりやすく「しあわせ」なのかもしれないけれど、きっと自分がほんとうは何を食べたかったか考えることもなく、考える意味もよく分からず、必要性も感じず、いつしか自分以外の「誰か」が食べたいものがまるで自分も食べたいものかのように思い込み、きっと一生、ほんとうに自分が食べたかったものは知ることもなく、そのためにつくる喜びも、ワインを飲みながら鼻歌を歌いながらつくる「その過程にしか存在しない種類のしあわせ」を感じることもなく、ホームパーティーのようなレストランとは「違う種類の豊かさ」を知ることもなく、そう、もっとディープなところに存在する、生きる喜びや幸せや大切な人との心の繋がりに気づかないまま、一生を終えるかもしれないということ。


資本主義的な生き方では得られない豊かさについて、どう表現したら伝わるのか、やっとわたしが感じる世界観で描けたように思う。

分かりやすく目に見える「しあわせ」を自分のしあわせだと信じ切っている人に、それを否定することなく、でも人生の喜びはもっと別のところにも存在していることを知ってもらうのは、そしてそのほとんどが目に見えない「しあわせ」であると理解してもらうのは、その人の前提を180度覆すような行為であり、場合によってはその人が積み重ねてきたものを否定することにもなりかねないから、かなり難しいことだと思っている。

受け入れたくないという怖さや、これまで積み重ねてきたものは間違っていたと思いたくない防御反応、自分が優位に立っていたいというプライドなど、その人がみたくない触れたくない自分の要素が凝縮されているだろうから。

そしておそらくそれは、言葉で伝えたところで伝わることはなく、その人が人生を進めていく上で、色んな困難にぶち当たったり、本質的な豊かさを生きている人に触れ続けたりすることで、大抵の場合、大きな悲しみや傷みを伴うような場面で、ようやく「気づく」ものなのだと思う。その人にとって、ベストなタイミングで。

そう気づいてから、わたしは「理解してもらいたい」という気持ちを手放した。

その人のタイミングで気づくしかないのに、今この瞬間に理解してもらうのは、そもそも不可能な現象だと思った。

だから代わりに何を始めたかというと、

「自分が誰よりも自分を生きること」

「自分の思考や価値観を発信していくこと」

この2つだったように思う。
アプローチの仕方を変えたということ。

「なんであの人はあんなに身軽に、幸せに生きれてるんだろう」

そんなハテナをその人自身に感じてもらい、そこにどんな秘密があるんだろうと、興味を持ってもらう方がよっぽど近道だと思ったからだ。

(ちなみに、わたしがそう感じさせたい対象は、資本主義社会全般的ととても広いから、実際に始めていくのはこれから)

そして、そう決めて過ごして間もないうちに、びっくりするほど明らかに覚醒した。笑


それで、冒頭に置いたnoteの内容について、引き続き想いを馳せている中で、新たに発見した思考があったので、そしてそれはとても大切なことに思えたので、ぜひシェアさせてもらえたらと思う。





もし、ひとりひとり人生という名前のキッチンを持っていて、ほんとうに食べたいものをおいしく食べることが、生きることだとしたら

わたしたちの人生の難しさは、
わたしたちがほんとうに食べたいと思うものを、
「まだ食べたことがない」ことだと思った。

おそらく、おいしいものを食べたいと思えば思うほど、そのほとんどをまだ食べたことがない。


それがもし「ハンバーグ」であれば、
わたしたちはきっと何回も食べたことがあるから、「こんな味」というのが分かり、「きっと食べたらこんな感覚になる」というのが、大体想像がつくのだけど、

でも実際の人生に置き換えると、
たとえば「あいうえお」みたいな食べ物があったとして、わたしたちはそれを食べたことがない。だから、一体それはどんな味なのか、おいしいのか、つくる価値があるのか、そもそもどうやってつくるのか、など、ほとんどが疑問なのだと思う。

その「あいうえお」は、わたしたちのビジョンや夢、目標、生きる意味、人生の目的、そのものに値するのだけれど、それがきっと「おいしい」と信じることは至難の業で、「あいうえお」をつくると決めることも、相当な勇気がいることだと思う。おそらく、自分の中に多少の納得性や、確からしいと思える仮説がないと、全くもって意味を見出せないだろうから、一歩踏み出すことはとても難しい。

じゃあもしその「あいうえお」を、食べてみたいと思い、実際に時間とエネルギーをかけてつくりたいと思った人がいたとすると、

それはきっと今のわたしの状況そのものだと思った。


ここでいう「あいうえお」は、わたしにとっては「Unique ME」なのだけど、それをまだ創り上げている最中だから、実際に完成して食べた時にどんな味がするかは、想像することしかできない。


でも、わたしの全てを注ぎ込みたいと思うほど「Unique ME」はどまんなかに存在しており、それが「おいしいのか」と聞かれて、「間違いなくおいしい」と絶対的な確信をもって言えるほど、まだ味見程度なのにも関わらず笑、信じているものがある。

これを信じることがどれだけ難しいことかというと、みんなにとっての「あいうえお」というまだ食べたことがない食べものを「絶対においしい」と言い切るくらい、難しいことだと思っている。


ここからが本題なのだけど、じゃあなぜその「あいうえお」を、わたしの場合言い換えると「Unique ME」を、「おいしい」と言い切れるのか、そして実際につくりたいと思いつくっているのか、ということ。


その答えは、「違和感の裏側をみる」ことなんじゃないかと思った。


「Unique ME」がどういうものなのか分からなければ、その裏側にあるものがどういうものなのかから、逆説的にイメージしていくしかないということ。

それが「Unique ME」の場合は、裏側にあるのが「資本主義社会」であり、わたしは20年以上、その資本主義社会で「正」とされている世界をどっぷりと味わってきた。

そしてそこで、ほんとうに数えきれないほどの多くの「違和感」を感じ、ひとつひとつ丁寧に感じ、向き合い、今思えば想像を絶するような傷みを、きっと沢山乗り越えてきたのだけど、それは言い換えると、「違和感の裏側」にある世界を、ずっと想像してきた行為だったのだと。

だから、自分が実際に体験してきた「資本主義社会」の裏側にある「Unique ME」のことも、まだ完成していなくてもありありとイメージができるし、絶対に素晴らしいものになるという確信がある。


これを読んでくれているひとりひとりが気づいているかは分からないけれど、そう考えている内に、この「違和感の裏側」という捉え方が、とっても重要なことのように思えてきた。


世の中のすべてがコインのような表裏一体、陰と陽、真逆のように思えてひとつの関係性にあるとすると。


つまり、わたしたちにとって、ほんとうに食べたいもの、つまり、何がいちばんベストなしあわせなのかが、生まれた時から「分からない」ものだとすると、そんな中でも「分かる」ようになるためには、その裏側にある「違和感と向き合うこと」これしかないのではないかと。


わたしたちは、生きる中で「しあわせ」を求め、それが何かを探し、色んな失敗や成功を経験しながら、「これじゃない、あれじゃない」と、消去法のように見つけようとするのだけど、

もしかしたら、いちばんの近道は、目の前にある違和感と向き合い、何でそれを違和感に感じるのか答えを導き出し、その裏側にある自分にとっての「しあわせ」までもを捉え、描き、「つくりたい」と思うところまで辿り着くことなのではないかと。


だから、しあわせをどれだけ強く深く優しく感じれるかどうかは、違和感とどれだけ強く深く優しく向き合ってきたか、その量と質で決まるように思う。


だからわたしたちは、目の前の物事や自分の気持ちに対して「うっ」とくるようなネガティブさや、違和感、苦しさなど、言葉にできないものを感じた時に、それに対してテンションが下がるのではなく、むしろ「しあわせの裏側にあるものを見つけた!」とテンションを上げる必要があるように思うし、そう生きるほうがよっぽど豊かで、しあわせなように思ったのだ。

だから、違和感に対する捉え方を変えることが、人生の目的に辿り着くための第一歩なんじゃないかと、これまで違和感に苦しんできた過去の自分に、いちばん伝えたいと思った。


未だ食べたことがないものを「きっとおいしい」と信じることは、とても難しいことだけど、その裏側にある「とてもまずかった」を経験すればするほど、そして「まずい」と感じるだけに留まらず、「なぜまずいと感じたのか」と向き合えば向き合うほど、裏側にある「自分は何をおいしいと思うのか」の答えになる。


だから、わたしたちが信じるべきは、「違和感の裏側」からたどり着いた種類の「しあわせ」、なのではないだろうか。

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