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鶏の命をいただくまで。

この島でのウーフ最終日。
鶏を十五羽食用にさばいた。この言い方があっているのかわからない。なんなら、殺した。というべきか。

人生ではじめて、生きている鶏を処理して、真空パックに入れられるまでの一部始終をみた。

16日間毎日お世話していた鶏。ふわふわでもこもこの背中。猫にも負けないプニプニした足の裏。えさに全力でたかってくる元気の良さ。たった2週間だったけど、鶏たちが愛おしくなった。

そんな彼らがおので命を絶たれるところを目の前で見た。

でも、その時、わたしの心は微動だにしなかった。何も感じられなかった。目の前で命が絶たれている実感が湧かなかった。家主さんがあまりにも淡々とやっているように見えたからなのか、鶏だからなのか、わたしに感情がないからなのか、、、何も感じることができなかった自分が少し怖かった。自分は動物の命をそんなにも軽くみているのかと思って、悲しくなった。

自分たちは、羽剥ぎを手伝った。首をおので叩いたあと、鶏をワイヤーでつないでぶら下げ、熱湯に10秒程つけて、ぽろぽろと羽をとっていく。羽がきれいにとれたら、足と首を切って、内臓を出して、水で洗って、半分にする。最後に真空パックに入れて、冷蔵庫に保存。

文章に起こすとたったの六行。。。

正直、ワイヤーにつるす作業が一番つらかった。首をおのでたたいた時は、全く実感が湧かなかったが、ワイヤーで鶏を棒に括り付けている時、今まで生きていた鶏が生きていないことを実感した。小屋に鶏を戻すとき、なかなか戻らない鶏を手で持ち上げて小屋に戻した初日。バタバタと羽を動かして抵抗した鶏。でも、死んだ鶏は全く動かない。鶏の足をもって持ち上げたとき、ただただ彼らの重みを感じていた。もう生きていない。ペンキのように赤い血が地面に落ちていた。

1羽目の羽をとるのが一番大変だった。いくら死んでいると分かっていても、足も首もまだついていて、ワイヤーに吊るされていて、少しでも揺れると、まだ生きている気がして、触れなかった。鳥肌たった、、、ってよく言うけど、本物の鳥の肌を羽を剥ぐ段階から間近にみると、その言葉すら口にできないくらい、ぞわっとした。

その後の処理も手伝わせてもらうことができた。でも、その段階になるともう鶏の姿ではほとんどなくなっていて、調理場で肉を捌いている感覚と同じ。


その日の夕飯。朝にさばいた鶏を、1羽、みんなで食べた。全ての過程を頭に思い浮かべずにはいられなかった。今までの何倍も、鶏に感謝して、命をいただくことへのありがたみを噛みしめながら食べた。美味しかった。

いただきます。ごちそうさま。心からそう言えた。




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