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怒って気付いた、「私が怒らない理由」

おはようございます、ゆのまると申します。

今日も朝からセミがにぎやかですが、お天気は下り坂のよう。溜まった洗濯物を片付けたいので、なんとかもってほしいところです。


さて。昨日は私にしては珍しく、感情むき出しな記事を書きました。思い出してはイライラし、リングフィットを始めても頭の中がカッカしている感じで、夕食前にバーっと吐き出したものです。

しかし、時間が経って冷静になってくるにつれ、「また母のこと悪く言っちゃった……」などと罪悪感を覚えつつ、もうひとつ思い至ったことがありました。それは、「私が怒らない理由」です。


喜怒哀楽の中で、私は「怒」が一番少ないです。

といっても、どんなことが起きても許せる菩薩のような心の持ち主……なんてことはまるっきりなく、イライラしたり内心で舌打ちしたりすることはしょっちゅうあります。

歩道に広がって歩いたり、スーパーで奥さんの後ろをウロウロするだけの旦那さんを見たり、ATMをいつまでも独占されたり。そんなふうに、スムーズな人の流れを妨害する輩には、常々心の中で(じゃまやねん)と呪詛を吐いています。でも、身近にいる人やニュースに対して、怒ったり腹を立てたりといったことはほとんどありません。

怒るって、すごーくエネルギーのいることです。負の感情を抱えて、さらにそれを外に向かって爆発させるって、エネルギー効率は悪いし、たいていは何の解決にもつながりません。状況を改善するための提案でも話し合いでもないですからね。

それに、世の中の大部分は理不尽でしょうもないんだと、そう諦めているからでもあります。真面目な人が報われるとは限らないし、どこにでも変な人はいるから、解り合うことなんて無理です。それにいちいち腹を立てるより、「そんな人もいる」「そんなこともある」と流してしまった方が(ぱっと見は)消耗せずに済みます。あくまで自論ですけど。


しかし昨日の記事をきっかけに考えてみたところ、「私が怒らない理由」、それは「自分の正義に自信がないから」なのではないかなーと思えてきました。

怒る時って、自分の中では絶対に正しいと思うことがあって、それにそぐわない行動をする人がいるから怒るんだと思うんですよね。もちろん、世間の規範に照らして是か非か判断することも多いですが、基準が「自分の正義」になることもあるはず。極端なことをいえば、「ハンバーグにはデミグラスソース」が正義である人に、おろしソースのハンバーグを出したら怒られてしまうわけです。そんなのありえない、と。

「正義の反対は、また別の正義」と言われるように、両方とも正しいというか一理あるのが厄介なところですね。まあハンバーグは何かけたって美味しいですけど。

で、その考えでいくと、怒るということは自分の正義を主張することになります。こうして社会の中で生活する以上、「こうするべき」という基準は私にもあります。でもそれが絶対に正しくて、誰からも否定されないかと聞かれると自信がない。私の基準で、私の判断で行動しているけれど、それを人様に強制できるほど自信があるかと聞かれると、イエスとは言えない。だから怒らないんじゃないかなぁ、と。


「振り上げた拳を下ろせない」なんて言いますが、生まれてこのかたデミグラスソースが正義だと思って生きてきたら、「おろしソースも結構イケるじゃん」と言うのは難しいです。これは完全に人間力が試されるところですけどね。

怒りを発散させた後にどう振る舞うか、自分の正義を違う角度から指摘された時に受け入れられるのか。

疲れるわ解決にならないわ事後処理が大変だわで、やっぱり「怒る」ってなかなか面倒です。それに巻き込まれた周りの人の苦労も含めて。聖人君子を目指そうとは思いませんが、感情の向き合い方とそれをどう昇華させるか、まだまだ修行は続きそうです。


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