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愛犬を看取って、私は旦那より先に死ねないと思った。


 愛犬を看取った。
 家族で外食する約束をしていて、犬の具合が悪いので実家で会ってあげてほしいと連絡があった。夕食をとり、車で実家に帰ると、犬は窓辺で横たわっていた(今思えば、家族の帰りを待っていたのだと思う)。もう自分で立ち上がる力はなく、暖かいベッドに運んであげた。しかし、私だとわかるとヨロヨロと進んできて頭をくっつけて、尻尾を振った。私は涙が止まらなかった。水を少し飲んだが、ご飯はもう食べなかった。介護用のスポンジで口の周りや鼻を拭いてあげた。口からは血が出ていた。もう長くないと私たちも悟り、そのままリビングでみんなで寝た。
 午前3時半頃、母がはっと目覚めると、犬は荒い呼吸をしていた。そして、家族が見守るなか、息を引き取った。父は単身赴任していて、私は旦那さんと暮らしている。家族全員が揃うのを待って安心したかのように、眠るように死んでいった。
 次の日、犬を火葬した。
 車で毛布にくるんだまま犬を連れて行った。その安らかな死顔が忘れられない。まずは遺体の体重をはかる。小型犬とはいえ、2キロしかなかった。そして、祭壇に遺体を横たわらせ、お線香をあげる。犬は小さな紙の棺に入れられ、そこにお花を供える。最後にみんなで言葉をかけ、体を撫でる。「お別れです」という係の方の言葉とともに、遺体は鉄のシャッターの向こうに運ばれていった。
 ささやかな待合室で火葬が終わるのを待つ。その犬を悼むことができる時間がもっと続けばいいと思った。悲しくてぼんやりしているとすぐ時間は過ぎ、お骨を拾った。
 昨日まで私を見て動いていた尻尾が、背骨と並んだ骨になっていた。骨はあまりに小さくて少なくて、私は生き物がこういう風に変わり果ててしまうことにショックを受けた。家族全員の手で骨壷を閉めた。帰りの車では弟がお骨を抱いていた。車窓の夕焼けがとても綺麗だった。
 翌朝、私は仕事に出るのだが、犬を忘れて仕事に集中する自分に罪悪感を覚えた。
 犬の死は私にいろんなことを教えてくれた。看取り、残される者の気持ちだ。今までの自分にとって、死はこの世から解放される究極の手段だった。でも、見慣れて愛した姿が骨になり骨壷に収まるという体験をすると、旦那さんに自分を看取らせるような辛い思いはさせたくないと思った。
 生き物は死んだらゼロになる。だからこそ、精一杯生きないと、という気持ちに犬はさせてくれた。捨てられたところを保護し、十二年間ともに過ごしてくれた犬には感謝しかない。私が実家に着くまで待っててくれていた犬の誇り高さに敬意を払いたい。だから夫を寿命で看取るまで、私は死ねない。

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