『ラストナイト・イン・ソーホー』を観て/美しさは搾取されるものではなく、祝福されるものだ。
『ラストナイト・イン・ソーホー』を観た。
これは映像と音楽の妙を楽しむ映画。それはわかっていたけれど、明らかに性暴力をテーマにしているから、観た後ずっとなにかがひっかかっていた。
エリーは度重なるセクハラに遭い、サンディも苦しんでいる。にもかかわらず、二人の美しい女優を楽しむ映画であることが矛盾に思えた。
でも、よくよく考えて、ラストシーンの幽霊になってエリーに軽やかにウィンクするサンディを思い返すと、そんな単純な映画でもないと思った。時流に乗ってフェミニズムをテーマにした薄っぺら映画なのか?本当に?
エリーにセクハラする人々、サンディを傷つける人々、その人たちはみんな悪いことをしている自覚がない。60年代も現在もそうだ。映画を観た後ソーシャルメディアを見ると、あらゆる性的なアイコンであふれていてサンディがいっぱいいるなあと思った。そしてその悪意は本当にホラーで、グロテスクだ。
そしてエリーとサンディが救われるのは、性別を超えた善意である。最後、サンディは「あんたのボーイフレンドを助けに行きなさい」と言う(超男性嫌悪のサンディが、である)。サンディがようやく成仏できると自分で思えたのは、エリーの優しさのおかげである。そしてエリーは、男性の恋人の無条件の善意に救われている。男が悪いとか、女が悪いとか、そういう二元論的な話ではない。
最後、傷つけられる前の魅力的な姿にサンディは戻る。その魅力は男を引寄せるためのものではなくて、自分らしく生きてゆけている姿だ。男女二元論なんてくそくらえ、人間の美しさに乾杯!そういう映画だと思った。
そもそも、男でも女でもどちらでもなくても、美しさは搾取されるものではなくて、祝福されるものだ。人と人を比べたり誰かをさげすんだりするためにあるものじゃない。別に強い女は短髪にする必要もないし、パンツスーツを着る必要もない。前髪ぱっつんのミニスカートで戦ったって良い。アイドルは制服を着なくていいし、旦那さんがいたっていい。美しさはもっと自由に享受されていい。序盤にダンスホールで大胆不敵に踊るサンディ、生きる希望に満ちたサンディを、私たちは心の中で忘れちゃいけない。そして、最後燃え盛る火のなかで静かに座るサンディは、美しさゆえにひどく傷つけられていて、この世はそんなことであふれていて、ただそれを笑い飛ばしちゃえるくらいサンディは美しい。
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