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自分の言葉で話すということ

金沢21世紀美術館のフォーラム・アールというイベントがあり、今日はそれに参加した。今回は永井玲衣さんによる「手のひらサイズの哲学対話」というタイトルの回だった。

哲学というテーマにとても関心がありイベントに参加してみることにした。あまりそれ以上の、たとえば目的意識みたいなものは持っていなっかったけれど、参加してみたら言葉にしたいことがたくさんあったのでこのnoteを書くことにした。


トークのざっくりまとめ

60分のトークで話されていた内容をざっくりとまとめた。

哲学を哲学者だけのものから切り離し、哲学とは何かというものを捉え直して身近な営みであることが紹介された。ふとしたことを立ち止まって考えるという経験は多くの人にあるはずなのにそれを表現する場所が今の日本社会にはあまり存在しないことに問題意識を持った永井さんは、集団で哲学をする場を作るために「哲学対話」という機会を設けている。ここでは「わたしたち」はそれほど強くない、弱い存在であることが強調されている。「哲学対話」では普段とは違う場を作ることや、3つの約束「よくきく」「自分の言葉で話す」「ひとそれぞれで終わらせない」を参加者と共有し、参加者が互いに無理をさせない場をゆっくり共に作ることを目指す。逆に意見をぶつけ合い議論し、何かを判断するということはしない。そしてそこで話される「問い」は参加者の中からゆっくりと生まれ、育っていく。「問い」は重く到底受け止められないかもしれないが、向き合える小さな「問い」からだましだまし考えていく。

気になったこと

トークを聞きながら気になったことや考えたことを2つ書いた。他にも色々あったが、特に気になった2つに絞った。

自分の言葉で話す

今回のトークの中で最も気になったのはタイトルにもした「自分の言葉で話す」ということだ。このトークの中では「偉い人の言葉を借りずに自分の言葉で話す」ということで使われていたが、もう少し色々と考えてしまった。

「自分の言葉で話す」とはどういうことかというのを私は最近考えていた。それはゼミでの出来事であるが、ゼミではテキストを読み進めてその内容を順番に発表していく。基本的に自分の担当になった範囲のことについては何を聞かれても答えられるように準備するものだが、これがとても難しい。

そしてゼミではその内容をテキストの言葉で説明するのではなく「自分の言葉で」説明することが求められる。といってもテキストの言葉は英語なのでそのままの言葉ではないが、それを単に翻訳しただけの言葉というのは往々にして「自分の言葉」とはなっていない。

しかし、これがどうしても難しい。なんとなくわかったという程度では「自分の言葉」では表現できないのである。自分の中ではわかったつもりであってもいざ説明しようとすると「つまりどういうこと?」と鋭い矢が飛んでくる。

「自分の言葉で話す」ということは偉い人のそれっぽい言葉できれいに表現しようとせず、等身大の言葉で噛み砕いて話すことが求められていると思った。そして、それは難しい。だからこそ考える余地があるし、そうやって考える中でより深い問いや考えができるようになっていくのだと思った。

そして、すぐには「自分の言葉」で表現できないこともある。でもそれは不思議なことではない。トークではそのことが作家の高橋源一郎さんの言葉を借りて述べられていた。

「自分の言葉」で表現できないということは私にとってはよくあることだ。なんだかとってももやもやするし、ずっと心の中に引っかかり続けて反芻してしまう。でも、それがうまく表現できる言葉に出会ったときはすごく昂るものがあるし、そうやって一つ一つ「自分の言葉」を増やしていくものだと思う。言いたいことを表現するためについ他人の言葉を拝借してしまうことはよくあるが、それで満足しないようにしたいし、「自分の言葉」で話そうとして、それの不自由さにぶつかって、そこから哲学が生まれるのかなとちょっと思ったのだった。

問いが出せる場をつくる

永井さんの行っている「哲学対話」では初めから「問い」が設定されているわけではなく、その対話の参加者から出てきた「問い」を扱うらしい。そしてその「問い出し」の時間を多く割いているようだった。

私が面白いなと思ったのはこの「問い出し」という行為だった。いきなり「問い」を聞かれても答えられない人は多いけど、時間をかけたら出てくるというのが面白かった。

私たちの日常の中ではその「問い」を表現できる場があまりない。それどころか間違えないようにと神経を尖らせながら生きているという人も少なくない。そのような中では「問い」を出すことそのものが難しいのはなるほどなと思った。誰も彼もが普段から「問い」を添えて生活しているわけではない。でも、「問い」がないからそれが出てこないわけではなくて、そもそもその「問い」を気軽に表現できる場がないから「問い」を表現するのが難しいという側面はあるのかなと思った。

そして、「問い」を出すということはその「問い」がその人にとって重要なものであればあるほど自分の弱さを曝け出すことに近づくから、対話の中で「問い」が出てくるまでには時間がかかるし、その時間の中で「ここでなら話してもいいかも」と思えることが大事なのだと思った。

「問い」が出せる場を参加者同士で作っていって普段はできないような話ができるのはとても面白そうだった。そして、出てきた「問い」を参加者同士で育てていけると哲学対話が広がっていくのだろうと思う。

おわりに

普段言語化していないようなことを自分の言葉で言語化しようとしていき、他の参加者の言葉を聞きながらそれをさらに噛み砕いていき、ということができると日常生活でなんとなくもやもやとしていたものがちょっとずつ姿を変えていくのかなと思った。

また、問いを表現できる場所を意識的に作ることで哲学という営みがより身近な存在になって、さまざまな問いに向き合うことができるようになったらいいなと思った。

今回はトークを聞いただけでその後のワークショップは参加できなかったが、とても面白そうだったのでこの「哲学対話」を実践してみたい。他人を巻き込む勇気が自分には足りない気がするが、できたらいいなと思う。

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