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2024能登半島地震に巻き込まれた話

このnoteを書いたきっかけ

はじめまして、ゆちゃんといいます。このnoteでは2024年の元旦に起きた能登半島地震の記録を残していきます。とにかく起こったことをそのまま書いているので、今後のためになることは少ないかもしれません。これを書いている現在(2024/1/2 3:40)もまだ能登の方では震度4や5の地震が断続的に続いている状態です。ヘリコプターの音もきこえます。本当に不安でめちゃくちゃ寝れないので頭を整理するために書いていきます。

元旦の初詣へ行こう!

2024年1月1日、私は関西の家から石川県の下半分にある実家へ久しぶりに帰省を行っていました。今回は運良く家族全員の予定が合い、一家(父、母、私、弟1、弟2)が揃っての年越しとなりました。年越しのカウントダウンをぬるっと終わらせて、眠そうに「あけましておめでとう〜」といっていたあのときには、元旦からこんな思いをするなんて全く思っていませんでした。
1/1の昼12時頃、夜ふかしをしてしまった家族は遅めの朝ご飯兼昼ご飯を取っていました。ごはんを食べている中、弟1が「明日(1/2)、能登のほうかどっかに釣り行ってくるかもしれんわ」と言っていました。父も「お父さんも明日ゴルフいってくるかもしれん」といっており、当の私も明日の夕方から高校の友人達とご飯に行く予定がありました。みんなとりあえず、元旦は開けておこうねみたいな雰囲気があり、予定はすべて1/2にずらしていたみたいでした。本当にこの大地震、もし一日ずれていれば、弟1は震源地の真上の海上で、父とは連絡がうまく取れなくて、わたしも家族の状況がわからないなんてことになっていたかもしれません。というかおそらくなっていたでしょう。マジでそんなん怖すぎる。
15時頃、朝昼ご飯をとっくに食べ終わり、家族はお家でのんびりしていました。急に「初詣いくぞ〜」と父がいい、みんなはちょっぴりしぶしぶ毎年行っている神社へ向かいました。車で向かったのですが道路がとんでもなく渋滞しており、神社に入るために30分ぐらいは待ったような気がします。私の一家が毎年行っている神社はすぐそこに海が見えるほどの海沿いの神社でした。そして今年は弟1の厄年だったこともあり、神社の中でお祓いをしてもらおうというスケジュールでした。
ここから時刻はふんわりとしか覚えていないのですが、なんとなくつけておきます。
15時半頃、神社の受付を済まし、さむさむとストーブの前であったまりながら、神殿へ呼ばれる順番を待っていました。程なくして「ゆちゃんの弟1 様〜〜」と弟の名前が呼ばれ、神殿へ進みました。歩くだけで、ミシギシと木造建築の建物がきしむ音がしました。そういえば、この神社は私(現在26歳)が小さいときからずっとこの建物だったように記憶しています。今思うとかなり老朽化が進んでいるような気がしました。

あれ?なんか揺れてない?

いざ式が始まり、最初の方はなんのトラブルもないいつもの厄払いが行われていました。お正月ってこともあり、普段よりかなり多くの人がいたので、厄払いの式自体もちょっぴり長かったように思います。巫女さんがお祈りの舞みたいなのを踊り始めたとき、ゆらゆら…とすこーしだけ揺れたような感覚がありました。隣に座る弟2にこっそり「あれ?なんかゆれてない?」といいました。ホントやね、と返し弟はすぐさまリアルタイムで震度が見れるサイトを開き見せてくれました。そこには「能登震度5強」の文字が真っ赤に光っていました。弟と顔を見合わせとっても渋いかおをしながら、「大丈夫かね…」とつぶやきました。スマホをカバンにしまって5分程して、弟1が厄払いの品をもらう列に並びました。その時、ギュイーーン!!!ギュイーーン!!!とそこら中のスマホから緊急地震速報の音が鳴り響きました。エッ!?と驚く間もなく、ぐらぐら…ぐら〜〜ぐわ〜〜〜んとどんどん大きな横揺れが起こり始めました。パキ…ミシミシ…!と木が軋む音が大きくなってきます。向こうで並んでいる弟1を大声で呼び、弟1がこちらに走ってくる姿が見えました。その光景がスローモーションみたいに見えて、柱がワイパーみたいに揺れているのが見えました。他の家族はしゃがんで頭を守っています。「お父さん!!!下がって!!離れて!!」と弟2が叫びます。父の上には大きな鉄で出来た飾りが、見たことないぐらい左右にぐわんぐわん揺れていました。ギシギシと大きく建物がきしむ音がなり続けます。母と父はすぐさまその下から離れ、私と弟のほうへ移動しました。母は弟の頭を上から抱きしめ、私は怯えすぎていて父の背中にしがみつきました。ガタイのいい弟2は一人立ちながら、飾りを凄い顔で睨んでいました。母が弟2をこっちおいで!!と呼び、すぐに頭を守っていました。正常な判断が全くできないような激しい揺れの中でしたが、弟2は「あの飾りが落ちてきたらキャッチしてやる、みんな守らんと」と思っていたそうです。一緒に中にいた神社の方も、一般の方も、外でお参りをしてるひともみんなみんな怯えていました。横揺れはかなり長い間続いていたように思います。天井がバキバキ音を立て、パラパラとホコリのようなものが降っていました。このとき、ああ、このまま崩れて死んでしまうかもしれない…と思っていました。ですが少しずつ揺れが収まり、地面が止まりました。過呼吸になりかけながらも、スマホを取り出し、震える手で関西にいる夫にLINEでボイスメッセージを撮りました。「大丈夫…大丈夫です…」これだけの短いメッセージでしたが、ラインすらも打つ余裕がなかったので、とにかく安否を伝えたかったのです。この音声を先程聞き返してみましたが、私の声は震えに震えており、遠くから父の「大丈夫や、大丈夫!」と私に喋りかける声、弟は2の「エッやばくね…?」と恐がってる声が録音されていました。無事を知らせたかったのに、これじゃ余計に心配になるよといまはめちゃくちゃおもいます。
大きな揺れがおさまり、周りのみんながざわざわと話し始める中、神主さんの「ゆっくりと出口へお進みください!!」という声に従い、私達は出口の方をめがけて少しずつ進みました。その移動の最中もまた建物がぐわんぐわん揺れてたように思います。(大きな揺れのあとだったのでよくおぼえていません)廊下には大きな窓ガラスがあり、そこからすぐそこの海が見えました。私は海のことはさっぱりなのですが、弟1は釣りが趣味なのでこの光景をみて「やばい、潮めちゃくちゃ引いてる、津波来る」と言い、潮の高さが見れるサイトを見ていました。隣にいた巫女さんの女の子が「波高いよ、アレ津波だよ」と半分泣きながら窓の外を見ていました。ギュイーン!!とまた緊急地震速報がなります。今回は津波警報も付いており、荒れる海の景色と揺れる足元からもうこれはだめかも…と何度も思いました。高校生ぐらいの巫女さん達が泣きそうな顔で、先輩の巫女さんの周りを囲む光景は忘れられそうにありません。スマホがない、いまどうなってるの?帰れるんですか?ここは安全ですか??パニック寸前の女の子たちを連れて、控室に戻る先輩もまたとんでもなく不安な顔で、誰も正解がわからない中、どうしようもなくなっていました。手と足が震え、ゆっくり歩くので精一杯な私に対して、弟たちはとても冷静に情報を集めていました。ガラスからは離れたほうがいいから、移動しようとか(こんなこと当たり前なのに、死ぬほど焦っていると視野が本当に狭くなります。)高度がわかるサイトでみたら、このへんじゃ今の神社が一番高いからここにいようとか、おしえてくれました。でもその弟たちの手もガタガタに震えていたので、すごく頑張ってなんとかしなきゃって動いてくれたんだろなと思います。テンパった私のスマホには「高いところ 【地名】」とか「津波警報 今」とかなぞの検索履歴が残っていました、焦るとこんなもんにまで思考が下がるので、スマホにはあらかじめ防災フォルダを作っておいたほうがいいかもね。
状況として
・余震はまだ続きそう
・避難場所として、今いる場所が一番安全
ということがわかったので、揺れが収まるのを待って外に出ました。出口に向かう間の廊下に、来たときよりはまっすぐだった写真がかなり斜めにズレているのを見つけました。着ていた上着を頭に巻き、姿勢を低くしながら、とにかく出口に向かって急いで移動しました。結局外に出るまで、緊急地震速報は、のべ3,4回ほど鳴っていたように思います。

外の様子

16:30ごろ、外に出ると大勢の方が集まっていました。北陸の冬は寒く、長い時間を待って過ごすのは難しそうでした。まだ全然動悸は収まっていませんでしたが、やっと落ち着いてスマホを見れるようになり、その時にわたしの場所が震度5強だったことを知りました。また輪島では震度7の揺れがあったことも同時に知りました。最初は嘘でしょ…7って何…?と現実を受け入れられないようなきもちでした。一気にたくさんのことが起こりすぎて脳のキャパがオーバーしているような感覚でした。とにかく急いで友人や夫に連絡を取り、みんなの安全を確かめました。その間にもサイレンの音が聞こえ、「津  波  警  報  で  す」の放送が聞こえました。何も出来ないまま、しばらくすると警察の方がやってきて「津波警報の影響でいま目の前の道は通れなくなっているので、ここで待機をお願いします」と拡声器をもちながら歩いていきました。いつ頃から安全に家に戻れるだろう…と思いながら津波情報を調べると、17時には津波の到達が予想されるとのことでした。外にいる最中も度々地震で木がゆさゆさと揺れていました。結局、外に出てから1時間半後ようやく車に戻ることができ、ゆっくりと海近くの道を走りました。後ろの海をみると、叩きつけるような高くて強い波が堤防を越えようとしているところが見えました。今までこの道は何度も通ってきたけど、見たことのない波の高さに、はやくおさまってくれ…たすけて…とおもいながら、お家へかえりました。

やっと帰れたお家

無事に家に帰ると、火事や道路の破損などは全く起こっておらず、まずそこで一安心しました。家に入るとピーピーと音がなっており、電気をつけると、冷蔵庫が全開になっていました。棚の上のガチャガチャが散乱しており、棚に積み上げていた漫画やCDが床に落ちてしまっていました。弟の部屋も漫画が落ちていたり、パソコンが動いていたりしていたみたいです。でも大きな食器棚や、棚の上のレンジ、炊飯器、テレビはほとんどうごいておらず、無事でした。弟たちが「ちょっと家の周りみてくるわ」といい、懐中電灯をもって外へ行きました。配管周りがおかしくなっていないか、ガスボンベに目立った異常はないかを確認してきてくれました(弟はふたりとも建築系の仕事をしていたため、なんとなく確認をしてくれていました)無事にお湯が出ることを確認して、テレビをつけました。弟二人は自分の部屋へ行き、学生時代に作った、手回しのラジオ付きの懐中電灯をもってきてウィンウィンと高速で回していました。家に帰ってきてすぐは10分おきぐらいにテレビから緊急地震速報がながれていました。どれだけ話していても、アラートの音や家の軋む音がすると全員動きを止めて、扉をあけたりしました。ドカン!ガタガタ…バキ…グラグラグラグラ…と突き上げるような衝撃のあと揺れる家の音はもうきっと忘れんのやろなと思います。母がとにかくなんか食べなといい、年越しそばの残りとおせち料理をみんなで食べました。わたしは本当に食欲がなく、おそば一杯を1時間近くかけてなんとかたべました。いつまたあの大地震が起こるかわからない中なので、お風呂に入ることすらもかなり怖く、揺れが落ち着くまではやめておこうということになりました。湯船にお水を貯めたあと、とにかく温かいパジャマに着替え、上からパーカーを着て、いつでも外へ行けるように備えていました。またお水やカイロ、下着と常備薬、タオルと現金など、家族5人で持てる量の物資をリュックに詰めて玄関にまとめておきました。いつでも出られるように準備を行っているうちに、外も真っ暗になり、ずっと気を張り詰めていて疲れ切った弟たちと父がリビングでねむってしまいました。母は「おかあさんずっと起きとるから、なんかあったら起こすし寝とっていいよ」といい、座っていました。わたしも眠くなるまでは一緒に起きてようとおもい、今この文章を書いています。まだまだ15分おきぐらいで、家がパキパキとなる小さな揺れが続いています。さっき震度7の誤報がでていましたが、全然いい、全然誤報なんて気にしなくて大丈夫、地震の情報伝えてくれて本当にありがとうと思います。こんな夜遅くまで沢山の人が動いてくれてありがとう。真っ暗でこんなの一人だったら怖すぎて耐えられなかった。パキっていう家鳴りがするたびに心臓がドッドッ鳴ってしまって、自分の鼓動がデカすぎて揺れてんじゃないのか…?って思ってしまうほどです。頼むから、もう大きい揺れやめてくれと願うだけです。どうか近くに住むみんなご無事でいてください。

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