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コロナ感染をきっかけにパニック障害となった人の話

わたしは今、会社を休職しています。
原因はパニック障害とのことです。

こうなってしまった経緯を、備忘録も含めながら書いてみます。

コロナ感染

2021年7月の中旬、世の中はコロナウイルスが猛威をふるい、1日の感染者数が全国で5000人を超えていました。
それでも4月ごろよりかはかなり落ち着いていたこともあり、外出は最小限にしていた私ですが、お盆の帰省を行うことにしました。
帰省といっても外出は行わず、家族だけで過ごそうというものでした。
久しぶりに家に帰れると、ウキウキしながら帰ったのを覚えています。

私が実家に帰ってから2日後、弟1が実家に帰ってきました。
弟1は地元の友達と久しぶりに会い、夕食を食べに遊びに行っていたようでした。
我が家は3人姉弟で、姉(私)、弟1、弟2がいます。
弟1と会うのが久しぶりだった私は、頭をわしゃわしゃとなでて「おかえり〜」と言っていました。
久しぶりに姉弟揃って3人でAPEXをして遊びました。
一つの部屋でぎゅうぎゅうになって遊ぶのは久しく楽しい体験でした。

弟1が帰ってきてから2日後、夕食時に弟1が「体調があんまり良くないから」といい、ご飯を残していました。
翌朝まで部屋で安静にしていたのですがよくならず、体温を測ると38度以上の熱が出ていたようでした。
母が大急ぎで病院に連れて行き、その日のうちに弟1のコロナ感染が判明しました。
弟1は帰省する前にPCR検査を受けており、陰性だったと聞いていたため、私と弟2はびっくりしていました。
この時、家族全員が濃厚接触者となり、後日自治体のPCR検査に召喚されることになりました。

残った家族は全員でPCR検査を受けに行きました。
防護服をきた看護師さん達によって鼻に綿棒をぶち込まれました。
痛て〜と言いながらちょっと泣く父を見て、みんなゲラゲラと笑っていました。
みんなが元気だったのはここまででした。

まず初めに私の体調がおかしくなり始めました。
喉に違和感がある感覚がし、違和感をとるために咳がしたくなるような感覚でした。
続いて同じような症状が弟2にも現れました。
弟1は2日以上38度台の熱がでていたため、ここで入院が決定しました。
父と母は元気だったことを覚えています。

翌日、PCRに結果が出ました。
結果は母以外全員陽性とのことでした。
その日はもう私と弟2は熱が出ており、ぐったりとしていました。
37度台ではありますが、節々の痛みや頭痛、だるさで体感のしんどさがマシマシだったように思います。
ここから隔離生活が始まりました。

へやで一人きりになり、話すことも食べることも寝ることも全てが辛い状況でした。
38度37度を行ったり来たりしながら、頭痛と咳と体のだるさに耐えました。
38度あると言っているのに部長から電話があった時は、母がキレていました。

仕事についてですが、帰省後は私が主体になって行う業務の予定がありました。
これに参加ができないことが会社にとても申し訳ないとおもっており、上司に何度も謝ったことを覚えています。
夫と電話をしている際も、会社についての発言が多かったそうです。(迷惑かけた、復帰後はしっかりやらないと、とか)
今思うと、復帰後のことをとても考えていたように思います。
もう迷惑はかけられない、と思っていました。

ここの記憶は正直曖昧なのですが、3週間近くこの隔離生活が続きました。

3週間後、隔離期間を終え、久々に部屋を出て家族がいるリビングに向かいました。
家族全員が回復しており、人と会って話せるありがたさを感じました。
また、姉弟は全員嗅覚が死んでしまっていました。
カレーの匂いを全員で嗅ぎ、ちょっと匂いする気がする、、、とみんなでわいわい騒いでいました。
3週間もほぼ寝たきりとなっていたので、体力も尋常じゃないほど落ちていました。
また、体重も5kgほど落ちていました。(おそらく筋肉が落ちてしまった)
階段で1階上がるだけで息が完全に上がっていました。
おそらく、体力の低下と呼吸器のダメージがあったのではと思います。
ここで問題が発生しました。

謎の過呼吸

いつも通り入浴をしている最中、いつも以上に呼吸がしづらいことに気づきました。
深呼吸ぐらいの勢いで息をずっとしていないと苦しくて耐えられないようになりました。
一度外に出ようとおもい、脱衣場に声をかけましたが、母が用事をしていたこともありちょっと待ってと指示がありました。
その間にも足の力が抜けて行きました。
いいよーと言われた時には、かなり呼吸がくるしくなっており、歩くこともできなくなっていました。
一旦座ろうと思うのですが、座っていられる力もなく、地面に突っ伏して息をしました。
母を呼ぶ力もなく、ひたすら地面を叩きました。
扉を叩きました。
どうしたの!と母が駆けつけてくれた時にはもう意識がかなり朦朧としていました。
水を飲ませてくれたのですが、全て吐いてしまい、呼吸がうまくできず、過呼吸のようなとてつもなく早くて荒い呼吸しか出来なくなりました。
指が反り返り、頬がじわじわと麻痺するような感覚がしました。
体に力は入らず、そのまま30分ほど動けない状況が続きました。
しばらくしてようやく動けるようになったのですが、体力の消耗が激しくすぐに眠りについてしまいました。

その1週間後、実家から家へと帰ることのできる体力が戻り、電車で家へと帰りました。
自宅につき、もう完治したと思っていた私は、普段通り家事を行っていました。
すると突然、息がしづらくなり、立つことが出来なくなりました。
先日の過呼吸とほとんど同じ症状でした。
夫に肩を借り、横になっていましたが、なかなか過呼吸が治らず、この時は1時間〜2時間ほど、歩けるようになるのに時間がかかりました。
家へと戻った3日後には仕事が再開する運びとなっていたため、この過呼吸がかなり心配な状態でした。

2ヶ月ぶりの出勤

約2ヶ月ぶりに会社に働きに行きました。
過呼吸のことはまだ言い出せておらず、大丈夫かな、しっかりしなきゃ、と思っていました。
仕事が始まり、朝礼で部長がおかえりと言いました。
「コロナはね、かからないようにしなきゃね、迷惑かかるしね、みんなも気をつけてね」と言っていました。
やらなければいけなかった仕事も満足にできず、周りに迷惑をかけた私のようになられては困るよな、でもそんな言い方しなくても、私だってかかりたくてかかったわけじゃないのに、でも迷惑かけたのは事実だよな、怖いな、申し訳ないな、辛いな、ごめんなさい
と思っていました。
溜まりに溜まった通達を2つ読んだところで、体に異変が起こりました。
背中と胸をすごい力で押さえつけられているような、首をぎゅーーっと締められているような感覚がしました。
ゆっくり呼吸をして、胸をどんどん叩きました。
早く治ってくれ、と思えば思うほど息が苦しくなりました。
部長が後ろを通りました。
「体調大丈夫か?」と聞かれた瞬間、返事が出来なくなりました。
話そうとしたのに呼吸だけが早くなってしまい、涙が溢れてきました。
どうしたらいいか分からず、逃げるように近くの休憩室へ逃げました。
始業から10分のことでした。
私は10分も机に座っていられないのか、と過呼吸の中おもいました。
すぐに女性の先輩が駆けつけてくれ、背中をさすって袋を口に当ててくれました。
休憩室はすごい雰囲気になっていました。
通る人がみんなこっちをギョッとした目で見て行きました。
それすらも申し訳なく、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
何も出来ないのに、人に迷惑だけはかけている自分が情けなくて、不甲斐なくて、年甲斐もなくぐしゃぐしゃに泣いていました。
先輩は家まで私を送ってくれました。
家に帰ってきてからも夫が私を気にかけながらいてくれたのが本当にありがたく、申し訳なく思っていました。

病院へ

コロナ感染者だったということで、呼吸器に問題があるのではと思い、呼吸器科へ受診をしました。
しかし呼吸器に異常は見られずと言った結果でした。
しかも受診したお医者さん(おばちゃん)がとても高圧的な人で、わたしがレントゲン室で着替えをしているとガチャっと入ってきて、早くしてくださいと言いながら服を勝手に脱がす人でした。
そんな病院は初めてだったので、びっくりしてしまい、やめてくださいと言おうとしましたが声が出ません。
またかよ、と思いながら立てなくなっている私を見て看護師さんが助けてくれたのをぼんやり覚えています。
お医者さんが、酸素濃度は問題ないのに何でこんなことになってるの、立てないんですか、早くしてください、と何度も何度も急かしてきました。
コロナかかってたのにうちに来たんですか?うちはコロナに関わりたくないんですといわれました。
受診前に電話でコロナかかってたって言ったやんとももう言えず、自分ではどうすることもできないため、待合室にいる夫を呼び、帰りたいと伝えその後の処理をお願いしました。
夫も大急ぎで私を助けてくれ、二度とあんなところは行かないでおこうねと私の代わりに怒ってくれていました。

次は心療内科へ受診しました。
よくストレスチェックなどで聞く質問のようなことを聞かれ、それに答えて行きました。
とても辛いことがあった?全てにやる気が起きない?といろいろ聞かれました。
結果、とりあえず体の緊張を取るお薬出しますねと言われ、仕事は休みよう指示を受けました。
結果8月中はお休みをすることになりました。
しばらく会社に行かなくてもいいと思ったとき、体のしんどさが少し抜けたような気がしました。
会社から離れ、お家の中でストレスとは無縁の生活をスタートしました。
ストレスなんてこれっぽっちも感じていないつもりなのですが、3日に1度ほど息が苦しくなり日常生活がうまく送れないことがありました。
胸の上に漬物石(かめ付き)を置かれているような息苦しさがありました。
過呼吸は起こらずとも、呼吸の苦しさは定期的に起こりました。

その後9月に入り1ヶ月間の在宅勤務がはじまりました。
会社からはリハビリも兼ねてちょっとやってみてねというところでした。
在宅勤務初日、まず驚いたのは自分の手汗と足汗が尋常じゃないほど出ていたことでした。
履いていたスリッパが風呂上がりのように湿っていました。
マウスには汗がついていました。
今までこんなことがなかったためかなり驚いたのを覚えています。
なんとか画面を見て仕事を進めようと、自分をがんばれがんばれと奮い立たせないと仕事ができないようになっていました。
これが普通だったのか今では以前の生活が思い出せません。
そうして仕事を続けましたが、1週間に1度ほど、体調がすぐれず座っていられない日がありました。
仕事にならないので、休暇をとりつつ1ヶ月を過ごしましたが、出社できる状態ではないため、10月からは休職をする運びになりました。

ウルトラ休職

休職をしてからTHEニートというような生活を送っていました。
社会のストレスとは完全に縁を切ったような生活でした。

朝夫を見送ってから、もうひとねむり、起きて家事をして、ご飯を食べる、ゲームをして、買い物に行って、夜ご飯を作る、食べて、お風呂はいって、ねる

これをひたすら繰り返し、1ヶ月が経ちました。
体が辛くなることはまだありますが、外は晴れてて気持ちいいし、過呼吸はおこってないし、気持ちも全然へこんでいない状態でした。
この月の通院でとうとうお医者さんから、じゃあそろそろ働いてみてもいいんじゃないですか?と言われました。
私自身そろそろいけるんじゃないかという思いもある反面、いまから復帰してできることはあるのだろうか、まだ早いんじゃないかという漠然とした不安持っていました。
いよいよかと思い、お医者さんに話しました
「でもやっぱり緊張しますね、ちょっと怖いです」と言った瞬間涙がブワッと溢れてくるのがわかりました。
しゃくりあげるような呼吸になってきたので、やばいと思い、お医者さんに手を握ってくださいとお願いしました。
落ち着け、落ち着けと思っているうちに体が崩れて呼吸がどんどん荒くなっていきました。
あれよあれよという間に、車椅子に乗せられ、外に連れ出されていました。
看護師さんが「良くなるまでゆっくりしてて大丈夫よ」と言ってくれました。
ありがとうございますと言って、一人になった瞬間また涙が溢れてきました。
自分の不甲斐なさに悲しくなりました。
どうしていいか分からず、考えても分からず、ぼーっとしていました。
ただただ涙がぼろぼろ出ていきました。
頭の中ではとても冷静なつもりなのに、ぼろぼろ出てきていました。
まだ仕事は無理だと思い、今年いっぱいは仕事を休むことにしました。

今のこと

11月12月とお休みを得た私ですが、またニートの生活を繰り返しています。
すこし頭の中を整理したくて、色々と書き起こしてみました。
平凡な人生を送ってきた私にとっては、かなりいろんなことがあったなあと思っています。
私に起こったことを見てもしかしたら、「なんでこれっぽっちのことで」と思う人もいるかもしれないな〜と今ふと思いました。
私自身「こんなことぐらいなんとか頑張れるやろ」とか「なんでできんの?」ととても思います。
周りの人はこれぐらいでへこたれてないのにと思います。
自分自身でさえも、自分の気持ちがいっぱいいっぱいなことに気づけていないみたいです。

「周りの人は頑張って残業してるから、自分もしんどいけど頑張らなきゃ」じゃなくて、「自分はしんどいからこれ以上は頑張れない」ということに気づけるようにならなきゃいけないと思いました。
他の人と比べるんじゃなく、自分の気持ちに正直に答えてあげることが重要なんだと身をもって知りました。

私の周りには他の人を尊重するあまり、自分のことを犠牲にしてしまう人がたくさんいるように思います。
そんな心遣いも素敵なところだけど、自分をもっと大切にしてもいいんじゃないかなとこっそり思います。

長くなりましたが、これで終わります。
これから元気になれるといいな

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