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人類が絶滅するのは素敵なことだけど、その過程はたぶん悲惨なものだ

いわゆる反出生主義の中心的な考え方として、「すべての人は子どもを生んではいけない」というものがある。

生きることには必ず苦しみを伴う。
親の自分勝手で子どもに生を強いるのは道徳的に悪である。
出産をなくせばその子が感じるはずの苦痛や不幸はなくなる。
幸福もなくなるけれども、それを感じる主体がそもそも存在しないのだから、その子の幸福を奪っているわけではない点で悪ではない。
出産をなくし、人口が減り、人類が絶滅へ向かうことは、世界から悪をなくすことなので望ましい。

突飛な主張に見えるけれど、論理としては個人的にわりと納得感がある。
人類が新たな命を生み出さず寿命に任せて自然消滅していくシナリオも、なかなか平和で魅力的だなぁと思う。

それを認めるなら、じゃあ「諸悪の根源たる出産をすぐさま禁止すべき」なんだろうか。
「人類は一刻も早く絶滅に向けて努力を加速させるべき」なんだろうか。

みたいなことを、最近もやもやと考える。
けれど私はまだあまりスッキリとした答えを出せていない。


出産の擁護は道徳的に難しい

すべての人生において、必ず何らかの苦しみは発生するはずだ。
その苦しみは、すべての人が乗り越えられるものとは限らない。
死ぬまで地獄の苦しみに支配されるだけの悲惨な人生も存在する。

だとすると、出産という行為を道徳的に擁護するのはかなり難しい。
もし「出産は悪でない」と主張するなら、子どもにとっては残酷なスタンスをどうしても受け入れなければならない。

  • 親は本人の同意なく、強制的に子どもの人生を始めさせる権利がある

  • 子どもの人生には苦痛が伴うが、出生後に親や周囲が愛情や金を注いでサポートすれば、いつか本人が乗り越えてくれるはずなので問題ない

  • 場合によっては努力やサポートではどうにもならない地獄の人生を送るかもしれないが、それは運が悪かったということで仕方ない

話の流れ上あえて露悪的な表現をしている部分はあるけれど、実際こういう暴力性が出産に含まれているのは事実である。

その暴力性を強引に例えるなら、熟睡している他人をいきなり高温のサウナに放り込む行為にちょっと似ているかもしれない。

彼があまりの熱さに目を覚まして、苦しくてもだえていようが構わない。
「大丈夫、サウナって熱いもんだから!」「あとで水風呂入ればめっちゃ整うから!」と励ます。
場合によっては彼に重い後遺症が残ったり死んでしまったりするかもしれないけど、それは運が悪かったということで仕方ない。
だってサウナは素晴らしいのだから。

こいつがやっているのは端的に言って暴力であり悪である。
なぜ悪いかというと、他者の自由を侵し苦痛を強要する行為だからだ。

私たちは「他者を害してはならない」という大前提のもとで暮らしていて、その規範を「道徳」と呼んで善悪の基準としている。
憲法が公共の福祉を想定しているのは、この道徳規範が個人の自由よりも優先されるからである。
熟睡している誰かをサウナに放り込む自由は私たちには認められない。

この道徳規範が徹底される限り、私たちには子どもを生む自由もないように思える。
出産という暴力は撲滅すべきで、その先に訪れる人類滅亡も素敵なことに思える。
人権の尊重をしっかり追い求めていくと、結果的に人権をもつ主体そのものがいなくなってしまうというのは皮肉な話だ。

理屈を超えるものとしての感性

しかし考えてみれば、他者を害してはならないという道徳規範もべつに支配的なものではないよな、とも思う。

まず「個人の自由」は大切だ。
でも社会を維持するためには秩序が必要だから、「個人の自由」より「道徳規範」がもっと上位にある。
でも社会って結局は個人の集まりだから、現実として「道徳規範」より「個人の感性」がもっと上位にあるんじゃないか。

感性とはつまり、理屈とかじゃなくて無条件に生じる感覚のこと。
主観的で説明不可能なんだけど、本人にとっては絶対的な肌感覚。
「だってそう思っちゃうんだから仕方ないよ」的なアレのことだ。

たとえばシュルレアリスムの絵画は、そういう絶対的な主観のもとに成り立っている。
どろどろに溶けた時計を見て「物理的におかしいでしょ」「この描写は正しくないよ」と指摘するのはナンセンスである。
それがいくら間違ったものでも、どろどろの時計が作者の心象に浮かび上がってきた事実は絶対的に正しい。
またこの絵画を「美しい」と思う人がいたとして、その感性は誰にも否定できない。だって実際にそう思っちゃうんだから。
客観的に正しいとか間違ってるとかはまあ置いといて、うまく説明できなくても主観的に美しいことが、その人にとっては大切なのだ。

こういった感性が善悪について多くの人の間でぼんやりと共有されていれば、「信仰」ともいえるようなまた別の社会規範ができる。
「みんながそう思う」ことは、正しい論理よりももっと強力だ。

実際に人類は、神への信仰を理由に人を殺したり、国家への忠誠を理由に人を殺したりする。
いわゆる道徳規範に照らせばまあ殺人は悪いってことになるんだろうけど、別に殺すほうも常にそういう土俵でやっているわけではないので、殺しですら社会的に許容されることもある。
個々人の感性がそれを許容する。

道徳的に善いとか悪いとか、客観的に正しいとか間違ってるとか、そういう議論が通用する場面は意外と限定的なのかもしれない。
多くの人の感性がなんとなく集まってできた信仰あるいは社会的なムードが、誰かを理不尽に苦しめることは常に起きうる。
そして人類はそれを理屈によって否定できないのだ。
もちろん当の被害者としてはたまったものではないのだけれど。

人の世には理不尽が本質的に組み込まれていて、これを個別に切り離すことは叶わない。
「人類は社会から理不尽な苦しみをなくすべきだ」という主張には、「理不尽な苦しみのない社会が正しい」という前提が含まれている。しかしこれは幻想だ。人が感性をもつ以上、理不尽な苦しみは社会そのものの一側面なのだ。

だから感性を度外視した理屈だけで社会を「こうあるべき」と主張するのは、その中身がどうであれちょっと厳しい部分がある。
まあ正論なのかもしれないけど、なんか気が乗らないんだよなぁ、という話になってくる。

絶望なき絶滅は現実的に難しい

そう考えると、たとえ出産が道徳的に悪だとして、悪を撲滅することが望ましいことだとしても、「出産をすぐさま禁止すべき」という主張がただちに通用することにはならない。

シュルレアリスムに感じてしまう美しさを無視してアートというものを語れないように、人は「主観としての出生の価値」を考慮せずに人類の行方を語ることはできない。

だって子孫繁栄こそが人類の役目なのだから。
命のバトンをつなぐことは美しいことだから。
子どもは神様からの一番大切な贈り物だから。
出生への信仰を理由に、出産を許容する。

こういう感性が現実に多くの人の中に存在することは、道徳の理屈では否定できない。否定してもあまり意味がない。
善とか悪とかはまあ置いといて、とにかく親は子どもを生む。

説明不可能なつかみどころのない感性が、ぼんやりとした社会的なムードを作って、こまごました道徳ごと理不尽に人類を動かしている。
人類はまあブツクサ言いながらその方向に動くしかないんだけども、そんな境遇の中でできることがあるとすれば、個人の感性というものをひたすら見つめて、互いに比べ合うことなんじゃないかと思う。
理屈だけじゃどうにもならない存在なんだから、理屈以外のことも大切に考えていくしかない。

今後もし人類が道徳的な理由で絶滅に向かうとしたら、それはたぶん社会的なムード全体として、皆が生きることに絶望したときだ。
多くの人の感性が「生誕は最も憎むべき悪だ」と強く訴えたとき、ようやく古の道徳規範が力を得て、社会の仕組みを「善い」方向へ動かす。

そのためには、今よりもっとどうしようもない苦痛と不幸とが世界中に蔓延していく必要がある。
「こんな世界に子どもを生むなんてとても人間のすることじゃない」とほとんどの人が心の底から思うような悲惨な状況が、まず到来しなければならない。

今のところ私の感性は、「そんな社会ってなんか嫌だな」と思っている。
人類が絶滅していく過程はたぶん悲惨なものだ。

私はたしかに出産は悪だと思うし、人類の自然消滅も素敵なことだと感じるけれども、一方で「新しい生命が誕生することの美しさ」のようなものに触れて感動することもある。
自分の中で矛盾を抱えているくらいなので、出産を止めるべきとも主張しない。

こういう中途半端なことを言っていると、なんだか出生主義者からも反出生主義者からも嫌われて、この社会から居場所がなくなるんじゃないかという懸念もある。
でもどうしようもない。だって実際にそう思っちゃうんだから。

苦しみや不幸なんてないほうがいいに決まっているのに、一筋縄ではそうはいかないから困る。
理不尽な世界には生きたくないけど、世界とは理不尽なものだから、私たちはそこで生きるしかない。

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