#00 二十六年前『蝉が一匹、力無くジーと啼いた』
意を決してベルを鳴らしたが、誰も出ない。武家屋敷を思わせる門扉は堅く閉ざされ、開きそうになかった。と、門の脇に勝手口があった。引き戸に手をかけた。
ギーッ。
想定以上の音が出てギクリ。誰かに見られたかもしれないと、咄嗟に辺りを見回した。誰もいなかった。体半分程度に開けた。敷地に入った。門の外を振り返ったが誰にも見られていないようだった。引き戸はそのままに。再び前へ。
車が三台止まっていた。その内の一台は見覚えがあった。
敷地はとても広かった。中央に母屋、その両翼に離れが廊下で繋がっていた。音がする。音楽のようだ。クラシック音楽のようだが、何の曲だかわからなかった。だが、そんなことはどうでもよかった。音楽は左手の離れから聞こえる。まっすぐそっちへ。
母屋も両翼の離れも平屋であった。とはいえ、それらはそれぞれ充分に一つの家屋としての機能は満たしているようだった。立派な玄関までついている。
何も隠れる必要はない。正々堂々と玄関から入るまでだ。
ドアノブに手をかけた。鍵はかかっていない。不用心な奴だ。
履き物は一つも見当たらなかった。だから、中に誰がいるのか、何人いるのか、見当が付かない。せめて人数くらいは把握しておきたかった。
しばらく逡巡。
でも、もうそれすらどうでもいい。あの子さえいればそれでいい。
土足で玄関を上がった。あの日あいつがしたように。
右手へ一直線に廊下が延びている。廊下が明るい。右側は天井から床までガラスの引き戸が連なっているからだった。その引き戸からは和風のちょっと広めの箱庭が、その先にさっきの車3台が見える。あの音楽は廊下の一番奥から聞こえる。
また逡巡。
あの子を見つけるのが先になるか、それとも、あいつと話をつけるのが先か。
廊下の左側には六つの扉が並んでいた。明らかに水周りとわかる扉は省こう。残るは四つ。手近な扉から開けていこう。
カチャ。だれも、いない。
カチャ。ここも、いない。
いよいよ音楽の聞こえる部屋の一つ手前へ。
カチャ。いない。
ジットリと脂汗が出てきて、首筋から胸にかけて不快な熱を感じた。ノブを握る手は少々震えていた。
仕方ない、話をつけるほかないようだ。
と、嫌ぁな気分に落ちかけて、体の向きを最後の部屋に向きかけたその刹那、扉が不意にガバッと開き男と鉢合わせした。
「だれだあ?、あっ」
総毛立つほど慄いた。
向こうも向こうでポカーンと口を開けていた。そして、やっぱり来たのかという顔でニヤニヤし始めた。そして胸の辺りを目線で舐め回し、とぼけた顔で、
「何しに来た?」
とまで言ってきた。だから、
「決まってるでしょ」
と答えた。
「ここにはいないよ」
「嘘!」
「ここはお前のような人間が来るところじゃないんだ! 帰れ!」
「ふざけないで!」
ドンと男を突き放した。男は不意を突かれてヨロヨロと後ろに数歩後退した。その隙に部屋の中を見回した。
いた! ゆりかごに駆け寄った。
しかし、かがんだ拍子、男に後ろから腰を蹴られて床に突っ伏した。男は、
「ええい!」
と言って、女から赤ちゃんを遠ざけ、暖炉の前まで引きずった。
女は上体を上げ、あいつに倒れるように腕を回した。
そして、
「あの子を返して!」
と、叫んだ。しかしあいつは、
「うるさい!」
と言って、無理やり取り付いてくる身体を引き離し、平手で女の頬を思い切り叩いた。女はもんどり打って頭からドサッと倒れた。ゆりかごでスヤスヤ眠っていた赤ちゃんはギャーッと泣き出した。
女が立とうと思って暖炉の縁に手をかけたとき、男は女の頭を鷲掴みにして暖炉の中へ放り投げた。女は頭から暖炉に突っ込んだ。ボーッと炎が上がった。そして何かがジューっと音を立て、すぐ異臭が鼻を突いた。髪の毛が燃え広がってチリチリになるのにそう時間はかからなかったようだ。袖にも火が広がった。
ウォー、ンー、ゥーと、声にならない動物的な呻き声をあげながら女はしばらく暖炉で悶えていたが、何かに取り憑かれたように這いつくばって暖炉から抜け出てきた。
ああ、なんておぞましい姿!
顔中にチリチリの髪の毛がひっついて火ぶくれを起こし、髪の毛なのか眉毛なのか睫毛なのか、もうわかったものではない。火はもはや上半身をも包まんとしていた。
男は、世にも異常に変わり果てた女の姿に腰を抜かして尻餅をついた。が、すぐにハッとして、手近にあったソファクロスで女を覆い、布ごとフランス窓の外へ引きずり出そうとした。
しかし女は、焼けただれた腕をにゅうと伸ばし、ひっついた指を精いっぱい開いて何かを掴もうと必死にもがいた。
引きずられながら女は布の中から、
「アノコヲ、アノコヲ」
と、うわごとのように繰り返していた。
「だ、誰が、貴様なんかに。。。」
男は女を力の限り庭に放り投げた。
女が最期に絞り出した言葉は、
「タ・タ・ッ・テ・ヤ・ル・・・」だった。
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