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手当て

「綺麗」と彼女は言った。暑い日のことだというのに、彼女はずっとパーカーを羽織っていた。エアコンがあっても効きは良くなくて、僕の首筋にも、彼女の額にも汗が滲んでいた。
「本当に綺麗」と呟く彼女の目は、窓越しの空、そのもっと上を見つめている。目の前に広がるのは、いつもと変わらない夏の空だ。視界の端で、雫が彼女のこめかみを伝って落ちた。

逃げてきたのだと、彼女は打ち明けた。大学も、家も、全て捨てるつもりで来たのだと。
「もうどうなってもいいやって思ったの。友達もいない、家族の繋がりもなくしたような私に居場所なんてないって」
最後に会いたい人に会って終わりにしようと思ったのに、僕の顔を見たら決心が揺らいだのだと言う。しばらくの間泊めてほしいと言う彼女にNoとは言えず、今日で2日が経った。詳しく何があったのか、どうして捨てようと思ったのかはまだ聞いていない。

空調がやっと効き始めた頃、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。
仲が良かったはずの同期が、気がつくと自分を孤立させようとしていたこと。それからは誰とも関わることなく前期を終えたこと。夏休みに入ってすぐ、元から悪かった母親との関係がさらに悪化したこと。父親は仕事でほとんど家におらず、頼れる人がいなかったこと。毎日のように小言をぶつけられ、求められるものの多さにとうとう心が折れたこと。
「私のことが癪に触るなら言ってくれたらいいのに」
そうこぼす彼女の目は、さっき空を見上げていた時と一転して暗く沈んだ色をしている。
「何をしても、どうやってもあの人は気に入らない。私がしてるからなのか、あの人の満足するレベルじゃないのか分からないけど、そろそろ疲れちゃった」
いつの間にか無造作にまくり上げられた袖からは、直線状の傷が見え隠れしている。そのうちの何本かはここ数日のうちにつけられたように鮮やかな赤色をしていた。
「その傷、」
「ん?あぁ、ごめんね。嫌なもの見せちゃったね」
「じゃなくて、手当て」
「いいよ、しなくて。今までしてこなかったし」
「僕がしたらダメ?」
「…いいよ」
一人暮らしを始めてから一度も開けたことのない救急箱。母が「何かあったときに用意しようと思っても遅いでしょ」と置いていったものが役に立つとは思っていなかった。消毒液とポケットティッシュ、ガーゼと包帯を取り出して、正面から傷に向かい合った。よく見ると薄らと血の滲んだ傷が数本ある。消毒液を開きかけた傷にかけると、「う、」と彼女が少し顔を顰めた。
「ごめんね。すぐ終わるから」
自分で言っておきながら本当にすぐ終わるのだろうか、と思いながら、傷にガーゼをのせて包帯を巻いた。不恰好になってしまったけれど最初にしては上出来だと思う。
「はい、おしまい」
まくった袖を元に戻したとき、真っ白な包帯の上に雫が落ちた。暑い?と聞こうとして顔を上げて、それが涙だったことに気づく。
「え、」
何かしてしまっただろうか。触れられるのは嫌だっただろうか。可能性が頭の中で渦巻いているのを余所に、彼女は「嬉しくて、」と言う。
「誰にも気づいてもらえなかったの。ううん、気づいた人はいたのかもしれないけど、でもこうやって手当てしてくれた人はいなかった。だから、手当てがこんなに嬉しいって知らなかったの」
ありがとう、と続ける声が涙に濡れていた。

彼女の涙は綺麗だった。涙だけではない、包帯の先の手も、その下にある傷すらも、この部屋に不釣り合いなほど綺麗だった。触れたい、とそのとき初めて思った。
手当てというのは、手を当てるだけでも効果があるのだとどこかで聞いたのを思い出した。なら、今からすることは手当てになるのだろうか。隣で泣いている彼女を抱き寄せると、肩口が温かくなった。抵抗は、されなかった。
彼女の背中に当てた手を、首の後ろから肩甲骨の下まで撫で下ろす。何度も、何度も。僕の手当てが、どうか彼女の痛みを楽にしてくれますようにと願いながら。

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