自己肯定と自己評価

こんにちは、yuuです。

自己肯定感を上げる、これが大切だと言われ始めたのはいつ頃のことだったか。
子育て、自己啓発、コーチング、その他さまざまな場面で自己肯定感について触れる機会は多い。

自己肯定感が上がれば、人生の幸福度が上がる的な考えは、至極まっとうなものであると思うし、それが出来れば苦労しないのに、と考える。私は自己肯定感の低い人間だと、自分を理解している。

ただ、自己評価は高いほうだと思っている。
自己評価は、自分を客観的に捉えて、何が出来て何が出来ていないかの判断をすること。
勉強、運動、人付き合い、容姿、生活水準等、判断基準は至る所に転がっている。

勉強も運動も大きな苦労はせず、人付き合いも親友と呼べる友達もいて、新しいコミュニティに馴染むのも早い。
学生時代から社会人にかけて、私と付き合いのあった人に印象を聞けば、何でも器用にこなすよね、そんな言葉をかけられる機会が多い。
自慢をしたいわけではなく、有難いことにそう言って頂くことで、自分の自信に繋がってきたという側面があるわけで。

自己評価、と「自己」という名前はついているが、結局は他人のフィルターを通じた自分を客観的に評価したものが、自己評価なのかもしれない。

ただ、そんな評価を付けている自分自身のことは、どうにもあまり好きではなかった。今も自分に「これで良いんだよ」的な暗示をかけないと、すぐに出来なかったことに目が向いてしまう。
自己肯定感は低いのだ。

原因が幼少期にあってとか、トラウマがとか言い出しても、あまり発展的ではないし、特にこれといったものも思い浮かばない。
ただ、長い年月をかけて、一番近い自分という存在そのものを肯定してこなかったのだと思う。

友人にこのような話をすると「もっと自分に自信もってると思った」とか「自分の人生を生きなきゃ」と言われたりする。
これも、それが出来たら苦労しないよと思うが、そう言ってくれる関係性を有難く感じている。

会社員だった時、上司との面談時に「自身のコミュニケーション能力を活かしてこんな成果を上げました」と伝えたことがある。
上司は私の能力を認めてくれていたと感じていたし、成果についても一定の理解を示していたように思う。
ただその時上司から「それは元々あなたが身に着けていた能力ではないですか?努力してできたというより、感覚的に出来てしまったことではないですか」と問われた。

私は、自分の持っている能力を褒めてもらえると思ったら、それ努力してんの?と言われた気がして、正直キツカッタ記憶がある。
それと同時に、異なる能力の社員を相対的に評価する立場の人からすると、元々持っている能力ではなく、一定期間でどのような努力をしたかで判断するということも理解できた。

上司は能力が高いことは認めるけど、それに奢らずもっと高みを目指してね、ということを伝えたかったのだと思う。
そして、それを私は受け入れていた。そう、今までもずっと受け入れて、努力をして、高みを目指し成長することが大切なのだと思ってきた節があるのだろう。

今持っているもので、十分幸せなのにね。そう自分に言って、努力も成長も見て見ぬふりをしたって良かったのだろう。
こうして文章にして、当時頑張っていた自分を労うことが今できる最善かなと思っている。

自分の子どもには、自己評価ではなく、自己肯定感を高く持って生きていってほしいと思う。
人と比べるのではなく、今の自分が幸せだと感じ、その上で挑戦と失敗を繰り返し、強くなってくれたらと。

自己肯定感の低い親のままでは、実現が難しい目標だと承知しているため、まずは自分の自己肯定感を高めることを実践していけたらと思っている。
子どもの前に、まず自分のことに取り組まねばならないなんて、面倒だなと思ってしまうのだが。
そんな感じだから、友人から「自分の人生を生きろ」と言われてしまうのだろう。アシタカのような友人は、ジブリが好きだったなと思い出す。

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