期待と信じること

こんにちは、yuuです。

子どもと接していると、「期待すること」と「信じること」は近い距離にあるのに全く違うものだなと感じることがある。
子どもに限らず、友達や恋人、他者と関わる際には同じような場面がいくつもあるのだろうけれど、特に子育てという場面では、より強くこの違いを感じているのである。

親になってから、無意識に子どもに「期待する」ことが多かったように思う。習い事をする、園での行事、学校でのテスト、お友達との関わり、子どもの生活の至る所に、親の期待ポイントが存在している。

子どもには無限の可能性があると信じ、色々な習い事にチャレンジさせる。
習い事で進級すると、褒めて次のステップでも出来ると声をかける。
集団の中でも、多くの友達と仲良くし、勉強や運動でも出来たことを伸ばしてほしいと考える。

可能性があると信じ、と書いたが、果たして本当の意味で「信じる」ことが出来ているのかと考えると、微妙だ。
やはり、親として子どもに「期待している」のではないかと感じている。

「期待する」ことは悪いことではないと思う。期待されて力が発揮できる場面はあるだろうし、そもそも期待して何かを始めないと、自分に合った何かと出会えない可能性もある。

ただ、やはり過度に「期待する」ことは相手にとって心地の良い状況だろうか。何かをできると信じてもらえる状況の方が、よっぽど良いのではと思ってしまう。

会社で働いていた時に、上司から期待されていることを感じる場面があった。
期待しているから、レベルの高いことを要求されているってやつだ。
相手は至極まっとうな上司であったし、私も期待に応えようと努力し、成長できたという実感もあった。

営利企業の中で相対的に評価をされることで給与を得ている側面がある以上、社員に期待することで価値を見出し、能力を伸ばすことが上司として当然の役割であることも理解できる。

ただ、それに慣れすぎてしまっているのか、人と比べられることが幼少期から当たり前であったのか、はたまた気にしすぎなだけか、とにかく営利とは似ても似つかぬ子育てにおいても、この感覚が抜けずに子どもに接してしまうことがあるのだ。

子どもからすれば迷惑な話だろうし、できることなら子ども自身が自分の可能性に期待し、物事に取り組んでいってくれれば、これ以上理想的なことはないだろう。その難しいことよ。

親の私にできることは、子どもが自分の可能性に期待できるような人間となるよう、信じてあげることだけだろう。その「信じる」ことが難しいのだが。

今日もyoutubeでゲーム実況を見ている子どもに対し、いつかは飽きて勉強でもしてくれるだろうことを期待せず、信じてみようと思うのであった。はぁ。

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