確認すること 疑うこと

こんにちは、yuuです。

日常的に、私たちは確認しながら生きていると思う。
鍵を閉めたか、クライアントへのメールの締め切りはいつだったか、子どもは出かける前トイレに行ったか、明日の持ち物は準備できているか、今日の夕飯の買い忘れはないか等々。

自分に関する事柄について、自らに対して無意識的に確認することの多いことよ。
それに対して、相手に確認することも、又多いのではないか。
子育てをしていると、子どもに対して確認することはとても多い。

確認するという行為の裏側には、やはり多少の疑いが存在していると私は感じている。
明日の準備ができていない、歯磨きしていない、宿題をしていない「だろう」という疑いの上に、確認するという行為が浮き出てくる。

親心として心配しているから、という心持もわからなくはない。
ただ、やはりそこには過干渉的な、やりすぎているという感覚も存在し得るだろう。ま、つい言っちゃうんですけどね、宿題やったの?と。

大人でも、これやった?あれはどうなっている?と何度も確認されると、うるさいな、放っておいてくれよと思うものである。
もしくは、この人確認するのが癖の人だから、適当に返事しておこうと思うか。

自分が後者になるのは避けたいが、自分に責任がある事柄についてきちんと遂行しようと思うと、どうしても確認したくなるものだろう。
多くの場合は、円滑な関係を継続するために「念のため聞きますが、○○は終わっていますか?」「確認しておきたいことがあって。○○さんならもう済ませてると思うのですが」等、あなたのことは信頼しているけれど、確認させていただきますよ~まさかやっていないとは思っていませんよ~というポージングを言葉に滲ませるだろう。

一般社会の大人同士では、このような枕詞がスラスラと出てくるのに、近い相手になればなるほど、このような言葉が減ってしまう。
これは、ある種信頼のある間柄の相手だから、そんな枕詞使わなくっても大丈夫でしょという、一種の奢りからくるものだろう。

信頼する相手に、疑うような確認をする。
なんだか矛盾しているが、よくやってしまう、反省する。
信頼のある間柄、信頼する相手というのも、あまりに疑われる回数が多ければ、揺らいでしまうものだろう。

だからこそ、他者に対する配慮や慈しみが大切なのだろうし、それは近しく大切な存在にこそ向けるべきものなのだろう。

相手のことを信じ、不要な確認はせず、ドンと構えよう。
このような結論に達する内容ではあると思うが、きっと私は今日も確認してしまうだろう。
せめて枕詞をつけてみようと想像してみるが、「やったとは思うけど、手洗ったの?」と子どもに声をかける。嫌みな雰囲気を纏わせる想像しかできない。

ここで力を発揮するのが「アイメッセージ」的なものだろう。「ママは手を洗ってほしいな~」ってやつだ。
それで子どもが素直に手を洗ってくれる日が、いつ来るのだろう。継続は力なり。そこも疑わず、信じるべきだろう。

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