フットボール絶対粋感
こうもやることがないので、RedBull翼を授かった僕はかれこれ数か月ほっておいたnoteを開いて、一時的なやる気をみなぎらせている。
SoSoバッドな3月末のタイミングでバイトを辞めてしまい、このご時世新たなバイト先が見つかるはずもないので、家でディスカバリーチャンネルに明け暮れる日々です。バッドタイミングもナイスタイミングてことでnote更新頑張れたらいいな。てかバッドナイス解散してた、ぴえん。
私流に想いを巡らすと、要は、上品を崩さないと「いき」にはならない、ということ。上品のままでは粋ではない。「品行が悪いが、品性はよい」、これは粋なのだ。
クラブの運営陣をディスったり、サポーターを批判したりで、以前のHakim Ziyechが「野暮」ならば、現在のHakim Ziyechは「粋」である。野暮は揉まれて粋になる。幾何学模様、薄化粧、湯上り姿、ハキムジイェフである。そう語るのは、絶賛、一人哲学遊びを楽しむ紛れもない私です。
181cm67kg、お世辞にもいいカラダとはいえないオランダ・ドロンテン出身のモロッコ代表は、フットボールファンなら誰しもがスタジアムに観に行きたがる、クラシカルなプレーヤーです。痩躯で、愛嬌のある顔立ちで色気があり、めちゃくちゃ小顔なので、僕はフットボール界の齋藤飛鳥と呼んでいます。
行人坂から見る富士山は有名だったのにも関わらず、さまざまな絵師がすでに描き切っている行人坂を選ばず、北斎は坂を下り目黒川を渡って、無名の土地の富士山を描いたのだった。北斎の個性が明確に出ている。へそ曲がり、天邪鬼である。つまり、これは選択そのものを崩しているのだった。
プレー中は選択の連続なわけで、アドリブが効く選手は見ていて嫉妬をしてしまいます。Hakim Ziyechは簡単にボールロストをするし、Hakim Ziyechは常にリスクを冒したプレーを選択します。しかし彼のプレーのどれもが予想を超えてくるのは、当たり前であろうという選択そのものを崩しているからです。痩せた体格のHakim Ziyechがフィジカル重視のイングランドを次の舞台に選んだことも、粋といえます。好きすぎて僕がもうスペルを間違えることはないです。絶対音感ならぬ、絶対スペル感です。
九鬼周造は「いき」という美意識について、さまざまな思いを巡らしている。「いき」の中には三つの概念がひそんでいるという。①媚態→色気②意気地→心の強がり③諦め→垢抜け
ボールロストの多さへの批判に対してデ・フォルクスクラントのロベルト・ミセトは「しかしそれが彼を見ていて面白い存在にしているんだ。チームのプレーに奥行きをもたらす選手であり、みんなそれをスタディオンに見に来る」と評した。
完璧ではない不足の美。ボールロストの多さにイラつくファンを黙らせる一発の崩れた選択。アイコニックなセレブレーションから垣間見えた品性は余裕から。
こうも自粛期間が長いと、憧れとか親しみといった普通の感情が消えそうだ。でもそれじゃ面白くないから、暇あれば、僕は僕の粋の加減を見ながら素材を集めて一人哲学遊びを楽しんでいようと思います。
すでにフットボール粋の境地に立っている僕が選びました。めちゃめちゃ嫉妬します。
Hakim Ziyech
Adel Taarabt
Abdenasser El Khayati
Hatem Ben Arfa
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