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読書日記 『罪と罰』

ドストエフスキー 作  中村白葉 訳


【一行説明】

人を殺めた者のその焦心、そして矜持と罪悪感の葛藤の末、自首に踏み切るまでを描く。

【要約】

大学を去り堕落した生活に精神を侵されたラスリーニコフは、自らを超人、大義の為ならば一般の法を超越しうる者と信じていた。熱にうなされた彼は計画を実行し、悪徳金貸しの婆とその妹に手をかけた。以後、彼は警察の手が自分に届くのではという焦心に駆られ、さらに精神を病んでいく。そして娼婦ソーニャに罪を告白するも救われず、次第に自ら罰を受けることを望むようになる。自分が超人でなかったことを認め、この生殺しの状態から脱することを切望したラスリーニコフは遂にその足で警察に訪れ罪を償うことを選んだ。



【考察】

罪とはその人間が自らの倫理的指針を踏み越えた時に、「行った行為」は「犯した罪」となり心に罪悪感として重くのしかかる。つまり罪とは人間の潜在意識下の本能的なものである。そして法とは、その個々人のモラルを平均化し、万人にとって平等なルールを創りあげたものである。(もちろん今の社会制度を効率的に統治するためのものでもあるが)つまりモラルは法に先行する。

「すなわち 『非常人』 は権利を持っている...つまり公の権利ではなくて、自分の良心に踏み越えることを。ある種の障壁を超えることを赦す権利を持っている。ただしそれは自分の思想(ある場合にはそれは、全人類の為に救世的意義を持つかもしれない思想)その思想の実行が、それを要求する場合のみに限ってですよ。」

ラスリーニコフが訴えていたことは、このモラルの平均化が適応できない「超人」が世の中には存在し、この傑出した者達は大義の為ならば法を超越し、自らの倫理的範囲内で行動できるという事であった。

しかしながらラスリーニコフは自らの器量を見誤り倫理的範囲を踏み越えてしまった。恐らく金貸しの婆を殺しただけであれば彼には何の罪悪感もなかったかもしれない。しかし、婆殺したことで適応される「社会の法」から逃れるためになんの罪の無いリザヴェーダ殺してしまった。法から逃れるために奪った命は、自分のエゴであり、それが自らの倫理的範囲を超えるきっかけとなってしまった。そして凡人であろうと超人であろうと倫理的指針を外れ犯してしまった罪は、償わなければらない。誰であろうが倫理を外れることを耐えきることが出来ないのだ。償われない罪は次第に罪悪感として重くのしかかり、万力のように罪人を苦しめる。むしろその罪悪感こそが本質的であり、最大の罰になりうるのだ。恐らく、罪の意識が本能的なものであれば贖罪することも本能的なものなのではないだろうか。その最大の罰から逃れるために、形式的な罰(刑法による罰)を受ける。つまり罰による償いとは罪人にとっては、最大の罰からの救済でもあるのだ。 

警察に捕まるかもしれないという焦燥に駆られ精神を病んでいた主人公を刑事ポルリーフィはさらに精神的に追い詰めていく。表面上では、その時点のラスリーニコフは、罪を暴露され人殺しとの烙印を付けられ失墜することを恐れているように映るが、彼が本当に恐れていたことは愛する者たちからの蔑みである。その証拠にラスリーニコフは最後まで母と妹に自らの罪を告白できなかった。そして愛するものからの蔑みを受けずに罪を償う方法を模索していた。そして自らの財産を人に投げ売り善行を行うことで罪を帳消しを試みたり、自らの犯罪を(その時点ではまだ)感情的には他人であるソーニャに懺悔するも、罪悪感が打ち消されることはなかった。このことはドストエフスキーのキリスト教の贖罪に対する姿勢があらわれているのかもしれないと思った。それよりも本人が一番望まぬもの、最大の苦痛、(ここでは愛するものに罪を打ち明けること)を受け入れることが罪人に対する正統な罰ではないだろうか。      

自ら拳銃で命を絶ったスヴィドゥリガイロフと川に身を投げなかったラスリーニコフの違いは、彼らの罪を受け止め、彼らを愛する人たちがいたか否かである。ラスリーニコフは愛する者たちがいるが故、罰を逃れたいという思いと罪を清算せねばらならという思いにジレンマに陥り苦しんだ。(この苦しみも罰の一つと考えられるかもしれない)いつしかラスリーニコフにとって特別な存在となったソーニャはラスリーニコフの罪を受け止め、罪を償うよう彼に自首を諭した。対照的にドーニャはスヴィドゥリガイロフを拒絶した。ここが大きな違いとなり二人の結末の分岐点となったのっであろう。

総括して、罪と罰は人間の本能的なモラルの絶対性、そしてそのカルマを訴えたものであると感じられた。





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