見出し画像

澄み渡る空の青さを彼女達は知らない

九日目の朝

搾乳作業をしているときだった。オーナーさんからサラッと

「中尾君さ、あんまり牛に慣れてないみたいだし2週間で終わりでいいかな。」と突然の戦力外解雇通知。

どうやら経験者の新しい応募が来たようだ。人生で初めて使えないと理由からのクビ宣告に、普段なら人一倍高いプライドに情けなさをかんじるところだが、それ以上に辞めたいという気持ちが勝り、内心高々に拳を突き上げてた。むしろ当初5月末までとの約束で雇ってもらったものをいつ「一か月で辞めたい」と切り出すかタイミングをうかがっていたのでちょうど良かった。

急にゴールが見えたことで今まで陰鬱だった気分が晴れやかになり残り5日頑張ろうとモチベーションが上がってきた。


今まで否定してきた現代の生産第一型の畜産が実際にどのようなプラクティスで行われているか曇りなき眼で見届けるとアシタカばりに張り切って来た僕であったが、想えば10日もあればそれを感じるには十分な時間であった。畜産の食べ物としての非効率性、廃棄物の問題などは今まで聞かされていた情報の通りであり大量の飼料と水を消費し、またまた大量の廃棄物を排出する。環境的負荷が大きいことは一目瞭然であった。むしろ想像していた以上の現実であり、聞いていた話を実際に働いてみることにより肌で感じることが出来た。(排泄物に至っては、手や顔に付くこともあり文字通り”肌で感じた”)

しかしそれに加えて強く感じたことである。生き物の尊厳の軽視だ。

僕が肉を控える様になったのは前のノート(僕が肉を食うのを辞めた理由)でも綴ったがそれはあくまで環境的負荷が大きいからという理由であって、動物愛護の感情は一切ない。しかしこの体験を通してその感情も変わりかけている。今でも肉食という行為自体は自然の営みであり何も間違っているとは思わない。しかしながら今の食肉産業の在り方は、生き物をカネを生み出す商品としてしか見ておらず、命に対するリスペクトの欠如が著しい。

コロナで外出自粛を余儀なくされ暇を嘆く今の僕たちなら外出が出来ないというのがどれだけストレスたまるか理解できるはずだ。しかし牛たちは外出どころか歩くことすら許されない。牛たちが行動できる範囲は、2m四方ほどのセクション内のみ。立っているか横たわるしかできない。その為糞尿は下に垂れ流されその体は常に排泄物にまみれている。

牛たちが人間と同じよう暇という概念を持ち合わせているかは僕にはわからない。彼らが野を歩く目的は餌求めて彷徨うのであり、歩かずとも餌が運ばれ来るのであれば彼らはいいのかもしれない。僕たちには牛たちの気持ちは分からない。だが一つ確かなことは彼女たちも確かに感情を持ち合わせている、という事だ。僕が乳を搾るときには蹴りを食らわすという明確な形での抵抗の意思表示を示すものも少なくなかった。考えてみれば彼女らに僕らが行っていることは文字通りの搾取である。

「金は稼いできて飯も養ってやる、その代わりお前はここから一歩たりとも出ず、一日二回朝晩に黙って乳をもませろ。」

フェミニストの皆様が聞けば金切り声を上げて憤怒しそうな内容である。しかし彼女たちに突き付けられた現実はこれ以外の何物でもない。


ようこそ、このクソッたれな世界へ

13日目の夜、新たな命の誕生という素晴らしい瞬間に立ち会うことが出来た。「今日20番の牛出産予定だから」オーナーさんが僕に告げ、その日一日は仕事の時間以外にも逐一様子を見に行くことに。

「ンヴゥァァァァァァァワアアア」

夕暮れになると野太い牛の鳴き声が響き渡る頻度が多くなっていった。そして夜10時過ぎ、この世界に小さな命が産み落とされた。

ようこそ世界へ。

真っ黒いお嬢ちゃんがぐったりと疲れ横たわる母の横にチョコンと弱弱しく座っていた。平均よりもだいぶ小さいようでオーナーさんは少し残念がっていた。そして彼はおもむろに仔牛に近づくとその前足をまとめて掴み、仔牛の背中を床に引きずりながら母牛から引き離した。ジタバタとする仔牛の弱弱しい抵抗も虚しく、20m程引きずられ仔牛が集まる牛舎端っこのケージの中に放り込まれた。生まれてから15分も経たずに子と親は引き裂かれた。その光景に思わず絶句したが単純に考えれば当たり前な事かも知れない。

僕たちが普段飲んでいる牛乳は本来、仔牛たちが飲むはずだったもの。だが仔牛に飲ませてしまっては、人間の取り分がなくなってしまう。だから必然的に子を親から引き離す必要があるのだ。

凄く気の毒に感じた。確かに新たな生命の誕生は素晴らしいことであるが、彼女のこの先の一生のことを考えるとすごく陰鬱な気分になった。このまま牛舎の端の仔牛エリアで母の愛を知らぬまま育てられ、ある程度まで大きくなると成牛用のセクションに移される。そこからは一度も歩くことも許されず糞にまみれ、毎日二回乳を搾られる。そしてこの牛舎を出る唯一であり最後の機会は、乳牛としての機能を果たせなくなり肉牛として出荷される時だ。

糞尿にまみれたマット、青白い蛍光灯、蜘蛛の巣と埃だらけのネズミ色のトタンの空が彼女たちにとっての世界である。彼らは何一つ知らないのだ。

あの野を駆ける喜びを、あの満月の輝きを、あの澄み渡る空の青さを彼女たちは知らない

そこに動物としての尊厳を感じられるだろうか。

そして最終日

夕方には新しい人が来るという事で昼過ぎに寮を出る様にと退去命令を受けた。この朝でクソとまみれる生活ともおさらばだ。

朝十時、最後の搾乳を終え、シャワーを浴びた後、荷物をバンに詰め込んだ。予定より早い撤退だが、二週間でそこそこの金は稼いだし、目的だった畜産を自分の目で見ることが出来た。僕の中で可能な限り肉は控えようという決意は固くなり、大好きな乳製品も取る回数を少し減らす努力をしようとも思った。僕らの食の裏にはこういった犠牲が隠れているという事を改めて感じられた。

一切の動物性食品を控えた生活を送ることが環境的にも、倫理的にもベストなのかもしれない。しかし、健康面や食文化の保全という観点から畜産は撲滅すべきではない。この結論は僕の中では揺るがなかった。

ではその中で僕にできることは何だろうか。

それはまず当たり前のことを当たり前にする。「いただきます」とすべてのものに感謝をし手を合せる。朝ごはんの美味しいチーズオムレツや脂の乗った夕飯の焼き鮭も、一つ一つの命の犠牲の上に成り立っている。全ての生命に対するリスペクト、それを絶対に忘れたらいけない。

そしてもう一つは、少しでも家畜たちに優しいプラクティスで飼育を行っているものをサポートすべきだ。安い製品の裏には効率化というものが隠れている。その効率化のしわ寄せを受けているのは、他でもない家畜たちだ。効率化というものを追い求め、今のように家畜たちを扱う事は倫理的に正しくない。いづれは正肉となり短い一生を終えるとしても、その一生のなかで野を自由に歩き回り、澄み渡る空を仰ぎ、太陽のぬくもりを楽しむ、意義のある一生を過ごしてほしい。

今まではスーパーに行った時、考えることもなく脊髄反射で最安値の卵に手を伸ばしていたが、牧場での光景を目の当たりしてからは自然とケージフリーの鶏卵を買うようにしていた。確かに最安のものと比べれば50円高いが、彼らが自由に歩けることには50円以上の価値があると僕は思う。

出発の直前、牛舎の真ん中の通路を端まで歩き両脇に並ぶ牛たちの吐息を感じた。ぎょろぎょろと見開いた目が見つめてくる。可愛くないし、でかいし、臭いし、結局最後まで愛着は全然湧かなかった。踵を返し牛舎の入り口まで付くと振り返り煙草に火をつけた。

「可哀そうな一生だけど、元気でいろよ」

奥の仔牛たちにも聞こえる様に叫んだ。久しぶりに咥えた煙草がやけに辛かった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?