見出し画像

僕のささやかな遺書、残しときます

コロナ自粛で家にいすぎて病んだか?と思うかもですね。仰々しいタイトル付けましたが、安心してください自殺願望とかないです。

コロナがここまで酷くなる前、インドに行ってVipassana瞑想の10日間合宿に参加したことについては以前書きました。(おうち時間、暇やなって人は読んでみてください、結構長編なんで暇つぶしにでも。)

その中で講師は、ものごと全てに反応せず感情的に麻痺した状態で生きることで苦しみから解放され、笑顔で最期の瞬間を迎えることこそ本当の幸せである、と僕に説きました。言ってしまえば仏教徒たちはいわば「終わりよければすべてよし」みたいなニヒリスト的精神を持ってるようで。(※少なくとも僕の解釈では)

その意見には2%も賛同しませんが、このコロナ自粛で家でゆっくりする機会が増え、如何に我が人生をフィニってこの世を去るかは確かにすごく大事な気がしてきて、ちょっとじっくり考えてみたことを文字に起こして整理しました。備忘録及び公開遺書、みたいな感じですかね。

如何に逝くのか

というわけでなんですが、なんせまだまだ22と若いし、実際いつか死ぬという実感が全然沸かないので、好きな作品の最期のシーンを思い浮かべるところから始めました。

盃片手「良い人生だった」と吹き飛ぶ。静かに親指を立て溶鉱炉に沈んでいくのも悪くない。片手を突き上げ「生涯に一片の悔い無し」と謳う。これらの最期に共通するものは、皆が自分の生涯に誇りを持ち、自分の最期を受け入れる覚悟を決めている事でしょう。

ここまで劇的な最期は迎えることはほぼないだろうが、何かに生涯をささげ、来たるその瞬間を受け入れる。これが”よい幕引き”の不可欠要素であると結論付けました。現段階ではもちろんまだ何も成し遂げてないし、まだ最期の瞬間を受け入れる覚悟は微塵もできてはいない。

しかし静かにその生涯の幕引きを受け入れられれば良い、というのも違う。僕の好きな作品の一つに ”Into the Wild"がある。物欲と見栄に溢れる人間の社会に嫌気がさした青年クリス・マッカンドレスが本当の幸せを求め放浪の旅の末、アラスカの荒野に足を踏み入れ野垂れ死ぬというものだ。彼は衰弱して遠のく意識の中、死に際に本当の幸せというものを悟ったのでした。

Happiness only reality when it shared(幸せとは分かち合う事で実現する)

俗世から離れ、たった一人自然と向き合うことにした彼であったが皮肉なことに死に際に「人と分かち合うことが幸せ」であると気付き、手元の本に書き残し荒野にうち捨てられたバスの中でひっそりと息を引き取った。


これについては瞑想合宿の経験から僕が感じたものとすごく重なる。それに荒野の朽ち果てたバスで誰にも看取られず逝くというのはどう考えても好ましくない。

そして僕は人生の意味は「知ること」にあると思う。死ぬまで好奇心持って貪欲に吸収する。人生はこれに尽きると思います。これについてはまた詳しく記事を書こうと思っていますので、乞うご期待。

ここまでのをまとめると

何かに生涯を捧げ、来たるその瞬間を受け入れ「まだまだやり残した事があるが、楽しい時間であった」と大切な人に看取られてこの世を去ることが人生のゴールであると今の僕は結論付けた。



このご時世、もしかしたら明日何かがあって突然命を終えるかも知れないし、ここまで生き方について語ってきたので、ここからは折角だし万が一のことがあった場合の「没後取り扱い説明書」を残しておこうと思う。


締めっぽいのは嫌いでね

まず大それた葬式はしないでほしい。惜しんでくれるのは凄ーくありがたいのですが、わざわざみんなで集まってまた悲しい思いするってのは陰鬱すぎません?どうせみんなが集まるならハッピーな方が良いじゃないですか。なので黒い服である必要もないし、長ったらしい読経やセレモニー、そしてめちゃめちゃ高い墓石を買うも必要ない。考えてみて、もう僕生きてないんだからそんなんに金使うんだったら美味しもんでも食べてくれよ。

2つだけ。正式な葬式なしの代わりに頼みたいことと言えばただ僕の身体を燃やすことなく、布に包んでどこかの目立つ大きな樹の下に埋めてほしいです。個人的に天に召されるというより、土に還るという表現を好みます。今まで自然から頂いた生命をそのまま自然に還していく。分解され土に吸収され、それを木が吸い上げる。やがて養分は葉を茂らせ、実を熟し鳥や獣の腹を満たす。自然の循環の中で僕という成分は絶えず姿は変えるが、完全に消えることなく永遠に残り続けることが出来そう、そんな気がするから。まさに「千の風になってあの空を吹きわたっています」そんなイメージです、簡単に言うと。考えてみてください、今まで散々大地の恩寵受けておきながら、死んでも尚、なにも還元しないのってなんか違う気がしません?

もう一つは僕の生前のモノや写真をいくつか残しといてどんな人物だったか孫やひ孫に語り継いでって欲しい。

人が本当の意味で死ぬときは人に忘れられたときだ。

読んでくれてる人の何人かはピンとくるセリフでしょう。ただこれはすごく心理な気がして、僕は「自然に還る」のは誰に対しても逃れようのないものではあるので仕方がないが、「死ぬ」ことは望まないです。僕という存在は消えても、僕という概念、信念みたいなものはどこかに受け継がれて残っていてほしい、そう思うんです。傲慢ですかね。

まぁ、その為にも孫にも胸張って語れるような立派な人生歩んでいきます、はい、頑張ります。


前を向いて歩いて行ってね

「いや、お前死のうとそこまでダメージ無いわ」

そんな声も飛んできそうですが、とりあえずみんなが僕の死をめちゃめちゃ悲しんでくれてるみたいな前提で行かしてください。

特に埋めた後は特に形式だった事はしなくて良いので好きに持ち寄ったお酒や食事を僕を埋めたその樹の下で楽しんで欲しい。暖かい日光の下、自然の中、ビールで喉を潤す。これは生前(今も生きてますが)僕が最も幸せを感じる瞬間の一つです。そこでは僕の死を悲しむ事なく、しかしながら懐かしんで「あの時こんな事があった」「こんな事したよな」と、昔話に花を咲かせるピースな会であればと思う。

あ、でも死んだ後でも悪口言われるのは嫌だからやめてほしいな。

そしてその樹がその後も古き友や家族が集まれる憩いの場所にでもなれば僕はとても嬉しい。

要するに3R

それから僕の財産や臓器は必要な人に寄付してほしい。勿論、家族や知人にそれを必要とする人がいれば優先的に。大した財を成すことはない気がするけれど財産の20%を木を植える活動に寄付してほしい。残りは僕の配偶者(いなければ家族)となる人で均等に分けてください。

ここまでのを纏めると、Reduce(葬式、墓石などの無駄の削減※あくまで個人の意見で自分自身の弔いに対しての話です。),Reuse(僕の財産、臓器の分与),Recycle(土に埋め自然の循環に還る)。どうぞ3Rで覚えておいてください。

以上、これが現段階で思う僕の遺書。(29.4.2020現在)

この先また家庭を持ったり、何かを経験することで、少し変化する部分はあると思いますが、何かあったときはどうぞよろしくお願いしますね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?