救世主症候群、あるいはメシア願望

前回の話の続き?でもないんだけど、その飲み会で思ったことをもう一つ。そういった意味では非常に実りの多い飲み会だった。

自分でいうのもあれだが、大学のゼミの中ではそこそこに期待をかけられていた方だったと思う。それはゼミの先生をはじめとして諸先輩、同期、後輩、あるいは在学期間が被らない先輩後輩までと非常に幅広い層と交流を持たせていただき、そのご縁は今に到るまで続いている。本当にこのゼミに入ったことが自分の中で大学に入った意味と言っても過言ではないくらい公私ともにお世話になっている。

大学を卒業するときの最後のプレゼンで感極まってか、思い切りよく「日本の教育に影響を及したい!」と大見得をはったのがもう三年前の2017年の一月で。その時にゼミの先生に「10年でまず結果を」みたいなことを言われた記憶がある。大学院を一年寄り道して三年経った今、明確な成果というか結果のようなものは残せていない。何もしていないのかというとそれも違うのだが、自分が関わったり、携わった人たちには少なからず良い影響を及ぼせているような気はしている。(教育の効果が現れるのには得てして時差がある、と思う)いずれにせよまだ何か成し遂げた訳ではない。

今年の三月に博士進学をしないという脱輪を起こしてから、もう一度どう生きるか、身の振り方の賽をふってみた。具体的に言えば就活をすることだったが、結果としてわかったことはやはり「自分にはこう」という生き方があって、そこからは逃れられないような、宿命めいたものを感じた。というのはまさに教育に携わることで、そうでない選択をしたにも関わらず、社会がこんなことになってしまって以来、自分の直感を信ぜざるをえない状況に陥っている。これこそがまさに自分が「救世主症候群」あるいは「メシア願望」と自分が名付けたものである。

大学を出て社会人になって以降は皆それぞれのスピードで人生をあゆむ。結婚して子どもが出来たり、転職したり、いろんな岐路をそれぞれ迎えている。多くの人は大学生にやっていたこととは無縁の、全く関係ない仕事をしている人がほとんどであろう。それで考えると自分は例外で、大学生の時に思い描いたような、社会を、教育を変えてやろう、というような思いを胸に抱いたまま大人になって、社会人になった。危機を迎えている、自分からすれば問題だらけの教育を変えられるのは自分だ、というひどい思い込みによって、いまだに頭の中は大学生のときから全く変わっていない。むしろ重症化したとさえ思う。

さっさとそんな願望捨てられてしまえば楽なのかもしれないが、今回の一連の社会動向によって益々その思いを強めてしまった気がする。幸か不幸か。こんな思いがあるからこそ、人生の次のステージに進めないのだ、という話をある先輩とした。自分が幸運だと思ったのは、同じような思いを抱える人が身近にいたことであろう。こんなことを言っても馬鹿げているとしか思われない(自分でもそう思う)が、身近に同じ思いを抱える人がいることが、自分にとって勇気付けられたのは間違いない。その先輩は自分とはまた違うフィールドで戦っている。この症候群を発症した人間は何かを成し遂げる人、あるいは成し遂げられずに歴史の闇に葬られる人、どちらかだ。はたから見れば無謀な賭けに思われるその戦いに身を投じる覚悟が徐々に固まってきた、

から大学に戻ろうと思った。

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