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映画「スタンド・バイ・ミー」をPrime Video で見ました。行きて帰りし物語。

映画「スタンド・バイ・ミー」を見ました。十代、二十代くらいの時に何回か鑑賞しているような気がします(少なくとも二回は)。原作も読んでます(内容はほぼ忘れているけれど)。
物語に派手な起伏はありません。物語の起伏はもちろんありますが、実際の子供が体験できるほどの大きくない起伏です。といっても、この映画で語られることは特別な体験ではあります。

ゴーディ、クリス、テディ、バーンの四人の少年が自分たちの住む街から三十キロ先の森の中にある死体を探しにいく話。
ゴーディは物語作りの才能がある少年(原作者の子供の頃を意識して作られた人物だと思われる)。彼は最近兄を亡くしており、親はその衝撃から立ち直れておらず、親からは関心を持ってもらえていない。物語は大人になった彼の言葉時々入る。ゴーディの回想というかたちで物語は進む。
クリスは四人のリーダー的存在。能力がありながらも、兄が不良グループの人間であることの影響で大人から信用されていない。街から出たいと思っている。
テディは粗暴な性格をしている。「汽車の前に出て、直前で避けられるか」なんてことも作中で行う。耳を父親がストーブに押し付けたことによって、火傷した過去を持つ。父親から虐待を受けているが、父親を誇りに思っている。
バーンは少し抜けたところがある少年。臆病でもある。すぐ話の腰を折る。近くにいたらイライラしてしまいそうな気はする。彼が死体のことを他の三人に話す。
そんな四人の物語。ひと夏の経験の物語であり、「死体を見つける」ということは何かの象徴だと思う。「死体を見つけるための冒険」という行為の過程がゴーディが兄の死を受け入れる(大人への成長の)通過儀礼としての行為の考えられる。
物語中盤、死体探しを諦めようとする瞬間(ゴーディがヒルに下半身を噛まれた時。これも割礼とかを意味しているのかもしれない)があるが、ゴーディだけは絶対に探しに行こうとする。
物語としてひと夏の経験を描く時、冒険の発端となる事物(マクガフィン)は別に死体探しでなくてもいいはずで、死体探しにいく以上、探す物にはなんらかの意味があると思う(原作者がホラーを得意とする人であるからかもだけれど)。物語中に「死」はゴーディの兄の死しかないから、どうしてもゴーディの兄を連想してしまう(クリスも大人になって死ぬけれど)。
といっても、そのような作中の暗喩などを考えなくても、ひと夏の物語としてスリリングで面白い。
一番は個性的な四人の少年の関係性の中でどんな対立や助け合いなどが起こるか、などを考えさせられるのがいい。序盤で各人物の個性を描いており、わかりやすく、そしで後の対立や助け合いなどを想像させて楽しみになる(クリスだけはのちにもう少し深掘りされる)。
彼らは線路の上を通っていくわけだけれど、森の前には橋があって、そこを渡って森に入る。明らかに異世界に入るような物語になっている(ファンタジーと考えると、ロウ・ファンタジーに分類される)。探しに行くのは死体であるから、死の国(黄泉)への旅。黄泉への行って、帰って来る話はとても神話的である。
テディが汽車の前に立ち勇気を試し、クリスとぶつかり合ったり、汽車に轢かれそうなったり、入ってはいけない場所にはいって犬に追われたり、火を囲んで皆で話し合ったり、子供の頃にしかできない特別な経験(たぶん少年にしかできない)が語られる。ひとつひとつの出来事は、ハリウッドの大作映画で語られる事件に比すれば対したことがはない、ただ少年の頃を過ぎた人間にとっては取り戻せない哀しみと、そういう思い出がある人は幸せなひとときを思い出し、なかった人にとってはありえたかもしれない憧れの思い出として見る人が多いと思う(全てに人にとって懐かしさを感じるとは思わないけれど。こんなふうに思えるのは、第二次大戦後のほんのいっとき、ある地域に生まれたものだけが思える感情かもしれないけれど)。そんな感情を織り交ぜながら見て楽しむ作品だと感じる。
とはいっても、今時の娯楽映画(脚本が昔より洗練されているいうのだろうか)に比べると、盛り上がりが少ないとも感じる(子供が体験できることだし、意図的かもしれないが)。
少年たちの生い立ちはまあまあ酷いもので、当時はそういうことを考えさせる作品だったのかもしれない。昔は親の虐待「テディは直接の虐待だけれど、クリスもゴーディも精神的に虐待を受けている)は世間からはあまり見えないことだったのかもしれないので、そういうことがある事実を示すのは大切だったのかもしれない(舞台は五十年代で、映画公開は八十年代だからもう十分周知されていたかもだが)。現代の視点で見ると、少年たちの過去はあまり映画のドラマに寄与してない気もしないでもない(特にテディは)。作品として、ただ描いてないだけかも知らないけれど。この作品も普遍的な作品であるとは思うけれど、上映当時に見た方がやはり面白かったのだろうな、と思はなくもない。

ゴーディの創作を語る場面がある(原作でも面白かった思い出)。面白いね。そこの反応から少年たちの個性も出るし。
クリスはゴーディが創作の道に進むこと進めている。ゴーディが中学で他の三人と違って進学コースに進む事に悩んでいる時、クリスは進学コースに進むことを進めている。この創作話の後で、クリスの告白がある。先生に裏切られた話と、この街から出たいという想い。

そして彼らは死体を見つける。そこにクリスの兄を含む不良グループがやって来る。クリスは死体を渡さないと言い、ゴーディは銃を不良グループに向ける。銃を持っているとはいえ、十六~十八くらいの不良は、十二歳の少年にとっては恐怖の対象だと思う。それでも、ゴーディは胆力で負けないで不良グループを追い返す。
物語の前半、ゴーディとクリスは不良グループのリーダーとクリスの兄に負けている。ゴーディは亡くなった兄の帽子が奪われている(これも兄との別れの象徴だったのかもしれない。兄離れすることの)。
車でやってきた不良グループたちに対して(成長の過程のない道)、ゴーディとクリスは小さいながらも困難を乗り越えてきた。その成長を示すエピソードでもある。

旅から帰ってきた彼らにとっては「街は少し小さく見えたことが」語られ、少年たちのその後が語られる。クリスは弁護士になるも、喧嘩を止めて亡くなってしまう。
「あの十二歳の時のような友だちはもうできない。もう二度と」という、小説家になったゴーディが文章が示され、終わる。
この終わりは涙が出る。自分ももう戻れないからだろうか。

ところどころでかかる音楽いいですよね。五十年代の曲なんですかね。

この作品って、ほぼ男しか出てなくないか?
ゴーディの母親と、ゴーディの創作に出てきた人たち以外。主要な女性人物がいない。

娯楽映画のように楽しませる映像はあるが、どちらかというと見終わってから考えに浸らせる映画作品である。娯楽映画と考えみると、物足りなさを感じるかもしれない。
「あの十二歳の時のような友だちはもうできない。もう二度と」と言われると、未来がないように感じられ、この映画から得られるものがあるだろうかと考えてしまう(娯楽映画なら楽しかったでいいけど)。二十歳に見た時はどう思ったのだろう。「大人になることは、何かを諦めることだ」とも思ったのだろうか。
同じように冒険したクリスは亡くなってしまった。
辛い終わり方だな。
ゴーディが小説家になっているように、ほぼ親にも見放された少年にとって、クリスのような自分が小説家になることを信じてくれた友がいたことは、どれだけ大切なことだったかわかる。そして、クリスだけでなく、テディやバーン、友との思い出が今のゴーディにとってどれだけ大切かも。
未来を見るだけでなく、過去が見つめること(ただ郷愁にふけるだけでなく)の大切さを考えさせる作品なのかもしれない。過去を見つめた時、大人になった出来事は誰にでもあるものだろうか?

物語の冒頭でゴーディたちがタバコを吸っています。偽タバコらしいけれど、今だったら偽でもダメですよね。
このせいでゴーディたちと同世代の子供は親同伴でないと見られなかったらしい。ちょっと子供が見るには退屈かもしれないけれど「自分たちの年齢の時の時間の大切とかに気づくにはいい映画だし、友達と見たいよね」と思いました。

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