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映画「シャン・チー/テン・リングスの伝説」を見てきた。派手なアクションだね。

映画「シャン・チー/テン・リングスの伝説」を見てきました。「10個のリングだから、テン・リングスなのね」などとこのブログのタイトルを書いていて思う。

「マーベルの新作だから見にいくか」程度の気持ちで見に行きました。カンフーアクションものと考えていました。ジャンルとしては、それほど興味はないです。それほど期待はしていなかったのですが、映画はすごく面白かったです。

チャン・チーは暗殺組織の首領である父親から、母の形見を奪うための刺客に狙われる。乗客が乗るバスの中や、ビル工事の足組という不利な場所の中で複数の敵たちと、チャン・チーはまるで踊るように舞い、時に大きく、時に静かに、武術を駆使し攻防を繰り返す。そして彼は、不思議な力を宿す「テン・リングス」を操り、息子以上の身体能力を持つ父との避けられない戦いへと導かれていく。

毎回、テーマ、テーマ言ってますが、伝えたいことも大切ですが、映画は映像です。作っている人たちが見せたいのは、映像であり、その映像の中での動きではないでしょうか(映像がテーマと言われれば、頷くしかないですが。ここで言っているテーマはメッセージみたいなものと定義しています)。壮大な風景。心を酔わせるような連続したカット。そして、人間の動き。CGを使った映像は、アニメーションに近いですね。アニメーションは人間にはありえないような動きをする人物を見せて、目を楽しませてくれます。「シャン・チー」もまた人間にはありえない動きで目を楽しませます(CGを使わず、人間の動きの限界を見せる作品もそれは、それで私は好きです)。主人公シャン・チーの最初の戦いである、バスでの戦い。この戦いが本当素晴らしかった。シャン・チーの戦いに加えて、ブレーキが壊れて暴走るバスを運転するシャン・チーの友達のケイティ(物語の最初で運転好きであることを示しているのはうまいですね。スピード狂気味ではありますが)。この場面を見て「この映画はこのような戦いを見ることを期待する映画だな」と思いました。この、最初が素晴らしすぎて、最後の父と子の戦いがすこし物足りなかったような気さえしました(派手だったのですが、もっと期待してしまった)。シャン・チーの妹シャーリンが経営する賭場での戦いも、ビルの工事の足場で戦っていてハラハラして面白かった。ラストの父と子の戦いも面白かったです。でも、もっと期待してしまったな。最後の怪獣バトルを盛り上げるために少し抑えたのかな。怪獣バトルなしで、人間同士の激しい戦いが見たかった。「ザ・スーサイド・スクワッド」を見た時は怪獣が出てきて興奮したのに不思議ですね。「私が人間の激しい動きを見せたいのだろう」なんて思ってしまったせいでしょうか、怪獣バトルは「なんか違う」っと思ってしまった。楽しめなかったわけではないけれど。

脚本はご都合主義にいく、一歩前に止まっているなと私は思います(許容範囲は人によって違うと思いますが)。物語の面白さを阻害するような要素はなかったです。シャン・チーの父、今回争う相手となるウェンウーにシャン・チーたちが捕まるのですが、なぜかそこにシャン・チーたちをシャン・チーの母の故郷に連れていく役割の人と獣がいたり、あっさり脱獄したり、など私にとっては許せるけれど、少しご都合主義ですね。6年間も有能な暗殺集団からシャン・チーは逃げられたということについては、父がわざと泳がせていたと説明があって、納得しました。

「映画は映像だ」なんて書いてますが、テーマというか、メッセージがないわけではないと思います。「子が親を乗り越える」というテーマがあります。これには、シャン・チーが母の故郷に帰って、ケイティに「本当は暗殺を行なった」と語ったところで気づきました(母の死の要因。父の母を殺した集団への復讐の場についていった回想があったからでしょうか)。古典的なテーマですが、これがなかったらもしかしたら私は「これは何を伝えたい映画なんだ」と思ったかもしれません。物語(映画に限らず、小説とかでもには。自分の中にも異論はあるから、エンターテイメントとしておくかな)には、「何か欠落している状態がある」「その欠落を無くした時、欠落を持っていたものに何らかの変化がある(と思わせる)」という状態の変化が必要なのではなかろうか、と思った。この映画のように、それこそ神話にもあるような「父殺し」というテーマであっても。それがあることによってカタルシスが生まれますよね。もちろん、「シャン・チーは父に勝つ。そのあと父は自分の過ちに気づき、息子のために命を落とす」という展開は読めてしまうわけですが。もちろん「何か欠落している状態がある」を物語の終わりにポッと出しては盛り上がらない。この映画においての父と子の争いは、私が注目していなかっただけで、最初からあるわけで。「これは何のための映画なんだ」と思ってしまうのは、カタルシスがないので心が満足していないからかもしれない。父と子の争いからの、子の成長という昔からある展開で私の中に何かの問題意識が生まれるわけではないです。それでも「これは何のための映画なんだ」なんて思わなかったのは、やはりカタルシス(盛り上がりがあるかないかの違いなのかもね)。今日的なテーマを扱っている作品であれば、作為的にカタルシスは作らなくても良いかもしれない(その問題について気づかせてもらえただけで、心は盛り上がる)。しかし、伝え方というか演出は上手くないといけないとは思いますが(伝わらないこともあるので)。

「映画は映像。目に映るのは映像だろ」と思い出しました。もちろん、テーマ性が高い映画も好きですが。文学が文字の連なりによる運動を見せる芸術であるように、映画は映像(同時に音声を伴った。無音は音楽なっていないという状態)の運動を見せる芸術です。物語もテーマも運動を見せるための一要素でしかありません。今日的なテーマを扱っていれば、そのテーマゆえに映画の人物や、視聴者の心に何かしらの運動が起こります。その運動によって生まれたカタルシスが、「この映画を見てよかった」という感情を生むのでしょう。この映画でいえば父と子の映像上の争い、「父殺し」というテーマも加わって盛り上がりが倍化しているかもしれません(なので、最後の怪獣バトルに蛇足感があったりする)。

なんて、理屈を捏ねてますが、動きが派手で面白いです。

テーマや、物語は語りやすいですが、映画は映像の語りである以上、制作者は画の連続で見ている人の感情を揺さぶるように作っていると思います。それが物語よりも、テーマよりも大切かもしれません(「文体練習」という本で、同じことを文体を変えるということを行ってました。映像でも、それは可能でありあらすじにしたら同じ話も、映像によって印象変えることは可能だと思います)。まず見るべきは、映像。カット割や、映像演出や、役者の演技、そこに映る全てが意識的に作られていることを意識してみると、映像として伝えたいことがわかるかもしれません。私は映像には詳しくないので、「表面的な派手な動き」くらいにしか言及できませんが、「もっと映像について見ないとな」と思いました。感想も物語展開や、テーマについてだけでなく映像にも言及できればと思います。

「テン・リングス」という、腕輪を使って戦いますが、由来は最初に説明されますが、なぜそんな魔法みたいな力を持っているのか具体的に説明されないです。この「テン・リングス」最後のシャン・チーと父の戦いで、なぜかシャン・チーに奪われます。シャン・チーが自分の意思で奪おうともしてないのに。最終的に全部奪います。これで、状態として父を乗り越えたと映像で示しているのは、うまいと思いましたが(シャン・チーは直接父を手にかけない)。シャン・チーの母の故郷の魔法のような武術の説明もないです。それは、そういうものとして需要するのがこの映画ルールのようです。最後、怪獣というか悪魔?が出てくるのも少し違和感がありました(原作がそうなのかもしれませんが)。雑魚の化け物だけ出して、「早くしないと封印が解かれる」という時間制限を加えて、シャン・チーと父の戦いというわけにはいかなかったのかな、なんて思います。

冒頭、シャン・チーの父のこと、母との出会いから見せるのは映画だから許されるのでしょうね、と思ってしまった。アクションがあって映像を見ていて飽きないけれど、本編が始まるまで長い。

シャン・チーの友達のケイティは車を運転したり、最後の戦いで矢を放ったり活躍します。シャン・チーの妹シャーリンは、最初の登場で兄と戦い圧倒します。最後の戦いでも活躍します。とても魅力的でしたね。


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