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映画「君たちはどう生きるか」を見てきた。「キャラクター性を廃したとき、アニメーションの物語は成立するのか」を問うた実験作品。

映画「君たちはどう生きるか」を見てきました!
まったく事前情報ないかたちで作品を見るっての初かもしれないですね。わたしは基本的に事前情報をいれないで映画を見に行きますが、それでも自分の好みの映画かより分けるために、何かしらの情報は得ているはずですから。
今回は宮崎駿監督が作っているという事実だけを根拠に見に行ったのだと思います。宣伝があっても行ったとは思うけれど、宣伝があったとしたら「これはわたしの好みではないかも」と思ったかもしれませんね。「冒険もの」とはどこかから知ったような気がするのですが、確かに「冒険もの」でした。
声優さんは有名な俳優さんが多く「宣伝がないのがもったいない」と思ってしまいまいした。俳優さんへのインタビューだけですごい宣伝効果がありそう(これから行うかもですが)。監督が声優さんより、俳優の方を声優としてキャスティングする方なんだと思うのですが「宣伝もしないのに、こんな有名な人たちをキャスティングして意味あるのか」とか思ってしまいました。
「母を亡くした少年眞人は父の再婚を機に東京を離れます。再婚、環境の変化、戦争の空気などから鬱屈した気持ちを持った少年が、不思議なことと出会い、そして不思議な世界の冒険を通して、亡き母への執着・依存の気持ちと決別し、新たな環境を受けれ入れていく様を描いています」
あらすじはこれでいいのかな?
少年の成長物語がテーマで、母の死を受け入れること、新しい環境(新しい母を)受け入れることが成長の象徴として描かれていますね(後述でこのテーマについては私は否定する)。

あらすじは上述したように、少年の成長物語と読んだのですが、映画を見ている間は「これはいったい、どういう物語なんだ? 何が伝えたいんだ?」と思いながら見ていました。
その原因は「主人公である眞人の感情がよくわからない」ということに起因しているのだと思います。眞人くんは小学生の高学年くらいの年齢でしょうか。とにかく感情を出しません。なんとなく鬱屈した感じは画面から読み取れますが、表面的には素直です。継母(夏子。眞人の生母の妹)に対しても素直に受け答えをしています。自分から会話をしようとはしていないし、話す時も「はい」ばかりだけれど。再婚する前からお腹の中に子供がいるのに対しては、良いようには思ってないかもしなかったかもしれないですが。
眞人は一人の場面でも、自分の感情を表明することもありません。なので、彼が今の状況をどのくらい嫌に感じているかわかりません。母親のことを夢などで見て、母への強い恋慕は感じます。
眞人は引っ越して初めて学校に行った帰り、同級生とケンカし、その帰りに自分で頭を石で殴り、大怪我をします。意味がわからない……。
今の環境を嫌がっていることを示しているんだと思いますが、すごい深い傷で、跡が残るほどの怪我しているんです。そこまで大きな怪我して、示すことでしょうか? よくわからないですね。
物語を見ていけば説明あるかなと思いましたが、特にありません。説明がないとなると何かの象徴となると思うのですが、この自傷行為が眞人の鬱屈とした感情を表していたのだと考えられますね。
学校まで車で送ってくれる父親は嫌ですね。そんな金持ちらしさ見せたら、地元の子に嫌われるに決まっている。あまり子の心がわからない父親らしい。
おばあさんたちとご飯を食べるときは、眞人は「まずい」とはっきり言っていますね。気が知れていると、素直になる性格なのかも。
同級生とのケンカはおそらくすごく感情を出していたと思うのですが、すごくカメラを引いて場面を映していました。意図的に眞人の大きな感情を見せないようにしているのがわかりますね。

引っ越し先の屋敷には人語を操るアオサギが現れます。アオサギは「母がいる」など言い、眞人を不思議な建物に誘います。物語の前半は眞人とアオサギのやりとりなどが映されます。アオサギは何かの象徴なんでしょうね。調べないとわからないけど。
眞人の継母である夏子がいなくなり、眞人は夏子を探しに行きます。その前に夏子が森に入っていくところを眞人は見ていたのですが、眞人は無視します。その後、夏子が行方不明になったと屋敷の人たちが探す場面が始まり、眞人も探し始めます。
この探す直前に、映画タイトルと同名の本「君たちはどう生きるか」を読んでいます(母からの贈り物)。この本を読んだから、眞人の中で何かが変わったのでしょうか? そのため夏子を探しに行ったのでしょうか? タイトルを拝借している本を読んでいる場面、これも何かを象徴しているのかもしれませんが、その本を読んでないので私にはわかりません。もし、本を見て考え方が変わったとしたら、それは現実にはありうるけれど映像向きではないですね。涙流していたし、何か感銘は受けていたのだとは思います。あえて行っていないとは思いますが「本を読んで考え方が変わったのなら」もう少し長く描写しても良かったかもですね。何かしら演出を加えるとか。でも、説明的になりすぎると無粋かな。
眞人は夏子を探しに不思議な世界に入っていきます。

不思議な世界での眞人の冒険の映像は目を楽しませます。しかし、眞人がどういう感情を持って、そんなに強く夏子を探しているのかわからないんですよね(前述したように読書が何かを変えたのかもしれないですが)。義理の母となる夏子のことをそんなに強く探し求める理由がいまいちわかりません。
前述したように、この映画では眞人の感情を抑えた形で描写しています。眞人の欠落している部分が見えないので、冒険を通して何を獲得しようとしているのかわかりません。
ベタな展開で考えると、母がいなくなったことと父の再婚で鬱屈した態度を夏子に示し困らせる眞人。それでも夏子は眞人に好かれようと、眞人が採取しようとしていたアオサギを取りに森に行く。本を読んでいく中で、自分の子供っぽさを感じた眞人は夏子の失踪に責任を感じ、夏子を探しに行く。不思議な世界での出会いと、本を読んだことを照らし合わせ、大人になっていく眞人。過去の母に会い、母との恋慕も思い出と変え、夏子を助けて、物語が終わりというところでしょうか。
ベタですね。宮崎駿監督にそんなベタな物語は求めてないのですし、わかっていて物語のセオリーを外しているとは思うのですが、この作品は説明が少なすぎて、どうやって物語を見ていけばいいかわからなくなっています(時代背景とかの説明はしなくてもいいですが、人物については描写や説明で眞人のひととなりを教えて欲しい)。
夏子に対して、眞人はそれほど愛憎ある感情を見せていたわけではないので「身内が危険なので助けよう」くらいの感じで行動している可能性もあるわけです。でも、そうなると眞人が夏子を助けたところで「助けられて良かったね」で終わってしまいます。夏子を助けるという行為が、眞人にとってどんな結果をもたらすのか、ある程度方向性は示してくれたらもう少しこの映画を楽しめたと思います。

夏子が森に入った行動も謎です。
妊娠している状態で、森に入ったりするでしょうか? 確かに眞人との交流はストレスあったと思いますし、そこから逃れたい気持ちもあったかもしれませんが。妊娠していると魔に魅入られやすい、という可能性もあるかもですが、説明はないです。
眞人が気にしている鳥を探して、眞人に気に入られようとしたのでしょうか。どんなに優しい人でも、自分のお腹の子の危険を冒してまで、義理の息子に気に入られようとするかな? 旦那さんに何か言われたとか、あれば考えるかもですが、そう言う場面もないし。夏子が眞人に対して、気に病んでいる場面もなかったですし。眞人がつわりで寝込んでいる夏子を見舞いしに来た時、眞人に対してなんらかの感情がある演出があれば、見ている方としてもなんとなく察することもできますが、そういう場面ないですし。

不思議な場所で時を超えて、子供の頃の母に会うと言うアイディアは面白いですね。
不思議な場所は、もちろん不思議なことがあるのですが、それに対して眞人は驚きもせず受け入れていきます。そんな眞人になんとなく違和感を感じてしまいます。旅の途中で出会った女の子が母であるといつのまにか知っているし(夏子のことを妹と言ったり、女の子が出してくれたパンから母が焼いてくれたパンを思い出す、など気づきの場面はありましたが)。とにかく眞人は、物事に対して葛藤をあまり感じず、なんでも受け入れてしまうんですよね。なので、物語が平坦だった気がします。
不思議な世界では色々なことが脈絡もなく起こります。眞人がそれに対しての反応がないのは気になりますが、その世界観自体は「そんなもんだろう」くらいの感じで見てました。鳥がたくさん出てきたり、炎とか、積み木に何か意味があるかも知れないですが、そこら辺は私はあまり気にしないで受け入れて見てました。
鳥とか、炎とかが一般的なメタファー(鳥だったら「恐怖」、炎は母を火事で亡くしているので乗り越えるべきものとか。作品を見て感じられることや、神話や歴史などから引用されているもの)であれば、それを知れば作品に深みがでて楽しめると思います。しかし、それが宮崎駿監督の過去からとった象徴(「大叔父さんが高畑勲監督では?」などの感想を見ました)であれば、私はあまり興味がありません。そういうことを話している映画の感想は見るのは楽しいですし、新たな視点を与えてはくれますが、映画をただそれで完結している作品として私は見るので、そこまで求められても私は応えられませんし、応える必要がないと思っています(制作者の過去を知るってことは「歴史」と言えば歴史で、宮崎駿監督はたまたま有名な人なので調べれば色々わかりますが、普通は調べてもわからないので、個人的な過去は上述した「一般的なメタファー」としては考えません。眞人がいた時代、例えば太平洋戦争についてなどは知っていた方がいいと思います)。この作品ではタイトルと同名の本が出てきます。二回見てより作品を楽しもうと考えるなら、読んだほうがより楽しめると思います(一回目から読んでもいいけれど、初見だと読む必要があるかわからない)。と言いつつ、「宮崎駿」という人が有名、大ヒット作を多数作ってきた監督であるという前提で見ているので、私も「一般的なメタファー」と自分で言っている考えから離れて見ているのですが……。宮崎駿監督でなければ、「物語の定型からずれている」「カタルシスを与えるような作りなってない」この作品は「あまり楽しめない」で終わっていたかも知れないです。まあ、「物語のずらし方」に意図を感じるのでわたしは「あまり楽しめない」では終わらないかな。

絵は綺麗で良かったです! ダイナミックな、見ていて快感と感じる動きはなかったような気がします。最初の階段登ったり、火事の場面ところとかはすごかったですね。

名前を忘れちゃったのですが、白い妖怪?みたいなのは可愛くて良かったですね。

私はこの映画のターゲットではなかったのかもしれないです。主人公と同じくらいの年齢の少年が見れば、面白く感じたのかな? でも、戦中の話だしな。現代劇で描くのは難しかったのでしょうか?
宮崎駿監督が少年の物語を描くとしたら、子供の頃の自分を描くしかなかったのかもしれませんね。

人の本質は変わらないと思いたいですが、時代が変われば「少年」の心も変わってしまうのかもしれません。特に現在はインターネットで、ある程度感情が共有されている時代ですし、現代劇で八十代の宮崎駿監督が少年を描くのは難しいのかもしれません。

不思議な作品でした。宮崎駿監督には娯楽だけで楽しませる作品でなく、何かメッセージ性を求めてしまいます。そのメッセージが私には読めなかったので、不思議な作品と思ってしまったのだと思います。戦争の時代を描いていて、戦争の悲惨さを訴える作品で話はない。少年の成長物語として見るには、説明がない(今さら宮崎駿監督が少年の成長物語を描く必要性を感じない)。
大叔父さまが自分の役割を、眞人に継がせようとしますが、それになんの意味があるのかわからないです。それを通して何かを伝えたかったのかもしれませんが、物語としてあの世界を残すことの意味をつかみきれませんでした。あの世界がなくなるとどんなことがあるのか。大叔父様の個人的な世界が消えるだけですからね。世界に対する大叔父さまの妄執とかが描かれていれば、わからなくないですが(不思議な世界に意味はないけれど、呪いみたいな象徴として)、そういう描写もないですし。
物語の定型に当てはまらない、当時の日本のリアルないち少年の姿を後世に残したかったのかもしれないですね。それならわかります。この作品のような少年が出てくる作品はないような気がします。自分の意見を口で表明できず、しかし自分で頭を傷つける苛烈な性格(昔の男の子は口べたなイメージはありますね)。その少年を描くための舞台装置としての不思議な世界。眞人が不思議な世界でどう感じるかを見せて、当時の少年の心を示す。成長物語は物語上の定型として入れているすぎないのかもしれないですね(成長物語としても見れないと、作品の意味がわからなくなる)。「当時の少年を描きたかったのか」と思うと、その視点でもう一度見たくなりますね。
この作品が、一般的な娯楽作品のように説明を入れて物語がわかりやすくなっていたら、この結論には至らなかったですね。ただ「成長物語」と解釈して、終わっていたと思います。
戦中にいた一人の少年を描いて、見ている人に何かを感じて欲しかったのでしょう。正解は宮崎駿監督にしかわからないですが、見ている人たち各々が何か感じれればいいと思います。

ただ、やはり眞人の行動原理が私はわからなかったので物語の流れが作る動きが断続的になっているように感じてしまいました。もっと集中力を持って鑑賞すれば、見えていたものを見逃している可能性もあります。
外側、目で見られるアニメーションの動きは素晴らしかったので楽しめますが、物語や眞人の心に対しても動きを感じられればもっと楽しめたと思います。


夏子が森に入るのは「眞人が冒険するために必要」以上の意味はないのかもしれないです。そう考えると、夏子は物語のいち部品ということになるから可哀想と思います。何か意味があって欲しい。

公開日当日、21:40の回で見たのですが満員でした。宣伝してない、夜遅くの回にも関わらず満員とは、さすが宮崎監督作品。

タイトルには「君たち」と複数形を示しているけれど、眞人以外の誰を指しているのだろうか? 視聴者を示しているのか?
物語の方向性がわかるタイトルだったら(少年を描いた物語として)、初見でももう少し楽しめたかもしれない。
せめて「たちを抜いて」「君はどう生きるのか」だったら、眞人くんの物語だとわかりやすかったのではないかなと思った。
でも、「君たちはどう生きるのか」を読んだ結果として、眞人の作中での行動であれば、このタイトルは適切と考えられますね。
読むこととによって、眞人の感情の変化を追体験できるのだとしたら、そこに「動き」が生まれ(眞人が涙が流すところで大きな動きを感じられるかも)、その後の物語の印象が変わるかもしれないですね。

このような物語性(人を動かす最低限の物語はある)もカタルシスも排除した作品は名声がある監督にしか作れないでしょうし、こんな作品が見られたのは幸せなことなんだろうとも思います。に物語とは何か」を色々考えさせられるので。
名声がある監督だからこそ、物語性を廃しているのは意図的だという安心感もありますしね。

下記動画で、眞人が「受動的」でも「能動的」でもないという考えを示していて、確かにと思いました。行動力があって不思議な世界に行くわけでもなく、巻き込まれて不思議な世界に行くわけでもない、とも言ってました。


私は感想で「一人の少年を見てほしいのでは」と書きましたが、それを延長すると、アニメーションにリアル(ここでは「『リアル』を現実世界に限りなく近いということ」「『リアリティ』を物語の役割をまっとうしながら、なるべく現実に近いということ」と定義しています)な人物を置いたとき、アニメーションは、物語は成立するのか否かを問うている、実験映画なのだと思いました(アニメーションと書いたのは、アニメーションはアニメーションでない作品と比してよりキャラクター性というものが付与されると考えるからです。たぶん小説や実写映画などみれば、宮崎駿監督が目指した作品はあると思います。とくに個人で書ける小説は)。

物語にでてくる人物はどんなにリアリティがあるように造形しても物語を物語として成り立たせるための役割にすぎません(すごく極端に言っています)。カタルシスを視聴者に与えるために「成長」や「変化」が必要となり、物語に出てくる人物はなにかしら「欠けたもの」を持っていて、その「欠けたもの」を最終的に埋めます(もしくは埋めようとして、さらに深い穴を掘ってしまう展開もあります。変化の一形態ですが)。
しかし、現実に生きる人間はどうでしょうか。何か達成したといって、必ずしもその人が変わるわけではありません。
眞人は物語を物語として成立させるための存在としては適していません。たしかに境遇的にあまりよい状態ではないですが、そのよくない状態を自分自身の力で越えられないほど弱い存在でもありません。何か達成したからと言って素直に成長するような存在にも見えません。
およそ物語の主人公として適していない存在を、物語にいれたときその物語をどうやって成立させるか。それに挑戦した実験映画なんだと思います。
眞人は夏子さんをそんなに良く思っているようには思えませんが、助けに行きます。その理由は明示されません。本を読んで感銘を受けたかもしれませんし、みなが探している姿を見て何か感じるものがあったのかもしれません。はたまた、夏子のお腹の子を心配したのかもしれません。人間が動く理由に何か劇的な理由が必要でしょうか? なんとなく助けにいってしまうこともあるでしょう。そして眞人はそういう存在なんです。ひいては人間とは矛盾に満ちていて、物語作品のような一貫性がありません。
この作品をじっくりみれば、きちんと眞人の行動理由が示されていて、わたしの考えは否定されるかもしれません。
一番わたしには理解が難しかった頭を自分で殴ることです。通常ならなんらかの理由を作中で説明すると思うのですが、この作品では視聴者の想像に任せています。家族へのあてつけなのか、けんかした相手への親の力からの報復を考えたのか、それともただ学校にいきたくなかったからなのか。なんにしても幼稚性は感じれます。そんなことをしたら他者がどう思うのか、どうなるのか(眞人の父親なら喧嘩した子の親にお金の力で圧力をかける可能性すらあります)への想像力がないです。その幼稚性、残酷さ、苛烈な気の強さが眞人なのでしょう。後に悪意といっているので、この点については最終的に性格は変化しているのかもしれないですね。この自傷行為という象徴的な場面の説明がないことが「これは人物について説明する作品ではない」ということを示していたのかもしれません。眞人がどう行動するか、きちんと見てほしいということを伝えていたのかもしれませんね。

物語の定型ではなく、リアルな人物を描くとしたら誰を描けばいいでしょうか? 自分しかないとわたしは考えます。なので宮崎駿監督は、少年のころを思い出して「こういう場所にいたら自分はどう動く」「どういう出来事が起こったら自分は能動的に動く」と考えてこの作品を作ったのかもしれません(思い出してなので、今の宮崎駿監督が想像する子供時代だと思いますが。そしてどうしても物語に適合させようとするバイアスがかかるので、必要以上に複雑な性格にしている可能性もあります)。
しかし、物語の定型に従わない人物を物語として成立させるためには(矛盾していますが)、その人物を動かすための舞台を用意しなければいけません(能動的に動かくすための)。矛盾を矛盾でなくすために、主人公以外の人物や、その舞台からリアリティがなくなってしまったのかもしれません。夏子が森に行くのは謎ですが、そう考えると眞人が動くために必要だったというのが一番の考えになります(と考えると、眞人以外はリアリティさえも放棄した物語の役割でしかないのかもしれません。これも極端に考えすぎですが)。
不思議な世界での布石もない唐突な展開の数々も眞人を主人公として、物語を成立させるためには仕方がなかったのかもしれません(それでいながら物語的な劇的なできるだけ出来事は起こらないように努力しているようにも思えます。カタルシスを感じさせる場面がなかったので、そう思いました)。実際の世界は何の布石もなく唐突に出来事が起こります。それを戯画的に、象徴的に描いているという可能性もありますね。

この作品から何か伝えたいことあるのでしょうか? 少年の成長物語。母への想い。など解釈しようとすれば、いくらでも解釈できるけれど、一番のテーマは「およそ物語に適さない人物をアニメーション作品に配置したとき、その人物はどう動くか」ということなんだと思う。
この作品冒頭の場面は「すごい!」と思ったのですが、ほかの場面は「ものすごいレベルの美術」ということを前提として、しかし絵にそれほど感動を受けなかったです。人為的にこうすれば頭に刺激を与えて、感動と錯覚するだろうという絵を意図的に描かなかったのかしれないですね(わたしが言う感動とは「ポニョ」で波の上を走る場面や、「千と千尋」でハクが龍に変わる場面とかです。ようするに物語のカタルシスと連動している場面ってことかな)。ただ、わたしが物語を追うことに夢中で美術が見れてなかっただけかもだですが)。リアルを重視したら、劇的な場面なんてないってことなのかもしれないですね。劇的な場面を配して、眞人を動かしたくなかったのかもしれないですね(母の死以外で)。
音楽についても緊張感を想像させるような、劇的な音楽なかったかも。ここらへんはあまり私は考えて鑑賞していなかったですね。
「少年の成長物語」などテーマと考えられることも、物語を物語として成立させるための道具であります。アニメーションの一番のテーマはやはり「動き」なんだと思います。これはアニメーションに限らず、小説とか文字だけの媒体でもそうだとわたしは考えますが。
この作品は従来のアニメ作品のように「外面の動き」よりも「内面の動き」を重視しているのかもしれないです。しかし小説と違って、映像作品なので「外面の動き」から「内面の動き」を想像するしかない。じっくり見ないと見えないものかもしれなくて、そこまで私が初見で見られたとは思えないので、もう一度見るとしたらもっと楽しめそうですね。
メタファーの意味とかにはそれほど興味がなくて、そのメタファーを理解したときに生み出される「動き」を知りたい。それがアニメーションの「動き」とのぶつかりあいの中で、その運動を楽しめるか、知りたい。初見ではあまり楽しめなかった。注意力もって見れば、何か変わるだろうか?

私の中では、この作品は「キャラクター性を廃したとき、アニメーションとしての物語は成立するのか」を問うた作品だと思いました。



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