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映画「田園に死す」をU-NEXTで見ました。幻想的な映像ですね。

映画「田園に死す」を見ました。この映画は「何のために映画なんだ」とは思わなかったです。しかし「何のための映画か」と問われると、よくわかりません。「考えてみようと」もあまり感じなかったです。その意味で「また、違うタイプの映画に出会ってしまった」という感じです。以前「映画は見終わった後考えるものだと」書いたわたしが「考えてみようと」思わなかったでしょうか(実際には感想書いてるから、考えるけど)。この映画は、詩人寺山修司の詩にのせて、進んでいきます。監督・脚本・原作も寺山修司さんです。詩人寺山修司の子供時代のある村の思い出を前半で描いており、間に現代のこの映画を作っている最中の寺山修司を描き、前半で描かれたのは理想の過去であり、本来の過去(実際は違うのだろうけれど)を描きつつ、映画を作っている寺山修司が映画内の過去の自分と向き合い、過去を改変しようと企む話である(あらすじでいうとね)。メタ的な作品であり、今でいうタイムループものでもあるね。テーマは「寺山修司」なんですよね。この人に興味がある人にとっては、映画について考えようと思うのでしょうが、わたしは興味がないしこの映画を見ても興味が湧かなかったです。興味を持たせたかったら、もっと普通の物語を描くだろうから、はなから寺山修司さんに興味を持っていない人向けには作っていないと思う。考えさせない理由のもう一つは、寺山修司さんがテーマなのは良いのですが、それ以上の広がりを感じなかった(公開当時は違ったのかもしれないけれど)。個人を通して、社会の問題を意識させるとか、社会問題とまではいかず若者の悩みとか、そういうものを感じなかったのです。寺山修司さんが、住んでいた村は古い因襲に囚われているような村でした。そこに、感じるものはあるけれど、今の時代からだと、もう過ぎ去ってしまった時代の話のように感じます(今でも、こういう村はもしかしたらあるのかもしれないですが)。テーマ(この映画は別に村の因襲をテーマにしているとは思ってないですが)が古くなってしまったというより、独特の構図で撮られた映像。役者さんの白塗りなどに現れている、色彩美。それによって、映画の映像は幻想的なものになっており、それが映画から現実的なテーマを見つけようとすることを拒否しています。考えたところで、阻害されてしまうので、それについて考えたところで表面的な「村の因襲」ところまでしか辿り着けず、それ以上、何も見つかりませんでした(人によって違うかもしれませんが)。時代は戦後すぐくらいでしょうか? 父親とかは戦争に行っているわけです。この時代の人の子供時代を描くとなるとどうしても、戦争のことがでできますね。この時代の人、特有の昏さが映画に感じました。

映像については嫌いじゃないです。「私(寺山修司)」と「私」の母を俯瞰で撮り、二人の間に屋根裏の板? を入れて二人の阻害感を出したり。サーカスの色彩豊かな感じとか。暗喩として「時計」が使われていて、「時計」が自由の象徴なのでしょう。「私」はずっと時計を欲しがります。ずっと鳴り続ける壁時計は「私」が家出の時は止まっています。「支配からの脱出」を意味していると考えました。最後に「私」は時計を手に入れています。自由になったのでしょう。色々、象徴的なものが隠されていると思うので、それを見るために再見するのはいいかもしれません。そういう意味では、「映像や、演出など、物語のメッセージ以外のような具体的なものでなく、抽象的なもので、映画について考えることを促している」のかもしれません。作者が好きか、映画の研究者でないと行わないと思いますが。

前半は割と、楽しんで見ていたのですが、中盤話がメタ的なものとわかると少し残念になりました、あのまま、幻想的な風景で通して欲しかったのに思いました。現代のパートで「夢を計画的に見たり、記憶を自在に編集できるようでなくちゃ、本物の作家とは言えないな」と「私」に言う人がいるのですが、こういう人はあまり好きでないです。「本物の作家」の定義がわからない。「君の三代前のお婆さんを殺したら、現在の君はいなくなるか」とも問います。どういう答えを求めているか、わからない。作家として想像力を見たいのなら、そう答えることになりますが。絶対にこんなことできなのだから、そんなのわからんだろ、と思う次第です。答えの定義を示さないで、どうとでも答えられる問いをして、答えが自分が望むものでなけれは「違う」という。それよって相手を支配しようする行為に思えてくる。「私」はこの言葉に影響を受けたのか、母殺しを考えるのですが、結局殺せないで、物語は終わります。中盤に少し不満を感じるもの、後半で現代の「私」が、映画内の昔の時代に入ってくると「タイムリープものだ」と思って、また楽しみ始めるわたしがいます。物語の冒頭でかくれんぼしていて、隠れた人が大人になって出てきます。サーカスの場面も、よく意味がわからないですが、色彩が豊かので見ていて楽しかったです。空気女に空気を入れるところは何かを象徴しているのでしょう。父なし子を生む女がいるのですが、理想の世界ではその子は村人から愛され、「私」の本当の過去の世界では生贄されてしまいます。この女の人のこと以外は明確に、理想と現実の世界の区別がわかりません。区別の象徴としてこの女の人が出てきたのでしょう。この音の人の時間軸もよくわからず、「私」が少年の時代に女の人は出産したのかと思いきや、後半で「私」の前に現れるこの女の人は出産後東京から行って帰ってきたようです。そして、「私」はこの女性に襲われてしまいます(若い男性が襲われる作品は珍しいですね)。そのあと、時計をしているところから見ると、「私」は自由にはなれなということなのでしょう(これが事実なら原作者にとってはトラウマかも。トラウマにしないように希望とするための時計だったのかもしれない)。

「私」が走る場面で、胸から上だけをとっている場面があります。画面内はほぼ「私」で埋まっている状態ですので、圧迫感があって緊張感がありました。カメラが引いて、全体を取ると動きの予測させるので、躍動感はでますが、圧迫感は消えました。「私」の母が時計を持って、山にいる場面。「私」の母がほぼカメラを真正面に見るのですが、その前に何人も並んでいる少年をら映しているので、それらを見ていると思いました。その場面がないと、視聴者を見ていると思ってしまうのでしょう(ラストタンゴ・イン・パリの場面のように)。遠景で人が出てくると、空いている空間への動きを感じますね。人がいないと、何も感じません。動きを感じさせるには、人間のような動く対象が必要なのでしょう(当たり前ですが)。風車がまわっている場面は、動きがあったので何かありそうには感じました。森とかが風で動いている時はどうでしょう。黒澤明監督作品だとよくあったような、またそういう場面を見た時考えよう。

「私」が、ある女性に憧れを感じて覗いたり、玄関まで行ったりします。その次に女性が出てくる場面では、「私」は親しみがある感じで女性に接しています。女性と仲良くなる過程を省いています。違和感は感じませんでした。良い省略と思いました。「私」は仲良くなりたい気まんまんなのだから、二人の間が仲良くなるのに障害とかがなければ、そんな場面は省略してしまってもいいですよね。そして、駆け落ちの話になります。

私小説的映画というのでしょうか? 「私」についての映画でした。それだけだと、「私」に興味がないと楽しめませんが、暗喩的なものに満ち溢れていますし、たびたび詩もてできます。映像から意味を考えたり、詩と映像の関連を考えたりしてみると楽しめます。前回見た「ラストタンゴ・イン・パリ」のように、登場人物が言っていることが全く変わるということはないので、この映画も「よくわからない」と思うところもおりますが、そのよくわからなさに不満はないです。最初から物語を語るという感じでもなかったので、「物語で見る映画ではないな」と思えましたし。映像を見ていると楽しめる作品です。物語を見る映画ではないと、書きましたが、筋がないわけでもなく、それがつまらなかったり飽きたりするような部分はないです。面白いかという、またちょっと違うのですが。楽しくは鑑賞できます。


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