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「種の進化はこれから停滞期に入る」仮説

本稿では,落合陽一氏の著書「デジタルネイチャー」で示された人類ーコンピュータ間の相互依存社会において,種が手段を更新する際に必要とするセンサーが機能しづらくなり,生物の種としての進化は長い停滞期に入るとの仮説を提示する.
本稿で述べる停滞期とは,遺伝子の更新量が小さいことを指す.いわば,人間のハードウェアの更新量である.本項の仮説は,この更新の必要がないとの認識に基づく.

例えば,あなたが誰かにイライラさせられた時のことを考えよう.この時,イライラしたあなたは心理的に溜まった感情ストレスを物理的に解消したくなることがある.つまり,殴りたくなることがある.
しかし,「殴りたい」という欲望は,今の日本ではほぼ全くと言っていいほど役に立たない.格闘技の興行でも出るなら別だが,正当防衛やジムでのストレス発散を除いて,相手が誰でどんな状況であろうと暴力は許されない.いわば欲望そのものが邪魔である.
もしこのような状況が非常に長く続いたならば,本来ならば,数千年か,あるいは数十万年かかけて,怒っても手は出したくならないように進化していくはずだ.すぐにはならない.そんなに人間のハードウェアの更新速度は速くないし,そのくらい遅くないとケミカルプロセスという名の複数の位相の重ね合わせに対応することができない.
これまでの人類,あるいは生物は,そうして"気が遠くなるような"長い年月をかけて少しずつ変化してきた.それが進化であろう.
その気が遠くなるような長い年月をかけて変化するためには,「システムの更新を求められるような環境が長く続くこと」という条件がある.つまり,この例の場合は「手を出すことが何のメリットももたらさない」という条件を満たした状態長く続く必要がある.

しかし現代は,その条件を満たすことができなくなりつつある.なぜか.物理的に大きな動きがなくても,すなわち複雑性のリスクなしに欲望を満たすことができるからである.
昨今のテクノロジーの発展に伴い,恣意的に環境を仮想再現することができると同時に,人間はそちらへと向かう.そうすると,物理的な動きと非物理的な動きの区別がつかなくなるからである.落合陽一氏の言葉を借りれば,質量のある世界と質量のない世界の区別である.
私は,完全に区別がつかなくなるとは断言できない.しかし,人は必然的に質量のない世界に吸い込まれていく.それは「欲望を満たしたと思えるかどうか」という認識に区別がないことと同じである.人間は映像で仮想的に起きている出来事に対して事実のように反応する.

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