【ゆのたび。】24: 群馬県 草津温泉  ~もらい湯にて密かに楽しむ現地の湯~

草津温泉に行こうじゃないか。

5年ほど前だっただろうか。友人に誘われ、私はあれだけ名前を知っているあの温泉地に行くのは実は初めてなのだなと改めて気が付いた。

草津温泉は国内で三指に入る知名度を持つ温泉だろう。温泉といえばと問われれば名前が確実に上がる。

「草津よいとこ、一度はおいで」

湯もみ唄の一節は、行ったこともないのにどこかで聞いたことがある。

遠く離れた地域にまで、草津の名は知られている。温泉大国のこの国にあって、素晴らしい温泉は数多い。だが知名度を伴うとなると、草津温泉は頭二つは抜けた存在だ。

かつて江戸時代には、日本各地の温泉地を相撲の番付に見立てて格付けした温泉番付が流行した。

その中で草津温泉は有馬温泉と並び大関として格付けされた。江戸当時は相撲の番付に横綱はまだ無かったため、大関はすなわち最高位の評価だ。

番付表を見れば名のある温泉が数多く記載されている。

それらの上と評価される温泉地として草津温泉は当時から高い人気があったのがうかがえる。

そんな草津温泉ではあったが、名前を知ってはいるものの私は結局今まで訪れようとしたことがなかった。

それはいわゆる、観光地に住んでいるからこそその地域の良さには気づかないという、灯台下暗しかのような感覚である。

つまりは近くていつでも行けるのだから、別に今行かなくても良いかの繰り返しによる未訪問だったわけだ。

なんとなく、改めて行くとなると腰が重い。あえてこういう機会でもないとより行かないかもしれない。

だからこれはむしろ、私には良い機会なのだった。

「ほう、これがメディアでよく見る湯畑か」

久里の温泉街には不思議と既視感があった。

これもそのはずで、テレビや雑誌などの温泉特集で草津はしばしば取り上げられており、芸能人が湯畑をバックに撮影を行っている姿は目にしていた。

始めて来たのに、始めて来た気がしないのである。

しかし、さすがに温泉の感触は実際に浸かってみないと分からない。

景色は映像や写真越しにも分かるかもだが、湯の熱さ、匂い、体のほてりなんかはやはり実際に自分での体を湯に浸けてみてこそのものだ。

さすがの賑わいを見せる温泉街を歩き、まずは草津温泉の代表的な日帰り温泉の『西の河原露天風呂』へ。

この露天風呂は千人風呂とも呼ばれ、非常に広い浴槽を持つので有名だ。

入ってみると、聞きしに勝る広い露天風呂に驚く。

人気なこともあり、多くの客が湯にはいたが、その広さによって手狭にならない。イモ洗い状態になるにはそれこそ千人は必要かもしれないと思えてしまう。

草津の湯は酸性度が非常に低いのが特徴で、殺菌や抗炎作用に優れているという。

とても薬効が強い温泉なので、一方で長湯はなかなか難しい温泉だ。

長湯が好きな私だが、しぶしぶ湯からは退散させてもらった。

というふうに草津の湯を堪能させてもらった私だが、露天ぶろを出てふと、私は思案する。

――できるなら草津の共同浴場にも入っておきたい。

友人たちがいるので自分のわがままに付き合ってもらうの気が引けるが、彼らもまたノリの良い連中でもあるので、誘ってみたら賛同してくれた。

実にありがたいことである。

さて、草津温泉には共同浴場があるということは実はあまり知られていないことだ。

それもそのはずで、温泉側も大々的に宣伝をしていないからである。

なぜなら共同浴場はあくまでも地元の人々が利用する湯であり、観光客に向けた湯ではないからだ。

草津温泉には2019年時点では19か所もの共同浴場が存在している。

数年前までは観光客も利用ができていたそうだが、観光客の中にマナーの悪い者たちがいたせいで、現在は白旗の湯、千代の湯、地蔵の湯の三か所だけしか利用できる施設がなくなってしまった。

……というのが、表向きだ。

観光協会も表立ってOKとは言ってはいないらしい。だが実際のところは、地元の方々への配慮をしながらならば利用も可能らしいのだ。

新型コロナの流行によってそれらの利用状況もまた変わってしまったかもしれないが、私が訪れた当時はまだ利用ができていた。

あくまで地元の人々のものな共同浴場だが、しかし草津温泉には『もらい湯』という素晴らしい文化がある。要するに、温泉をおすそ分けさせてあげる、させてもらうという考えだ。

中には完全にジモ専(地元の人専用のこと)の浴場もあるが、調べた感じでは多くの浴場は利用させてもらえるようである。

ということで、私は地元の人御用達の浴場へ足を踏み入れてみることにしたのだ。

ひっそりと隠れるようにあった共同浴場

西の河原露天風呂からの帰り際、共同浴場はまるでお土産屋の間に紛れるように影を薄くしてそこにたたずんでいた。

正直、一度通り過ぎてしまった。だがふと何か引っかかりを覚えて振り返り、なんとなく建物に浴場の雰囲気を感じて近寄ってみて、その扉に『湯』の文字が書かれているのを見てようやく、ここだと気づいたのだ。

まったく宣伝の気配もなく、ただそこに何の気構えもなく共同浴場はあった。

なるほど、確かにこれは地元の湯だ。あまりにも目立たないし、たとえ観光客が気づいたとしても入ってみようとは思わない渋さである。

利用しても良いとは知ってはいても、もし地元住民と鉢合わせをしたら気まずいことこの上ない。

「本当にここに入って良いのか?」

友人たちと何度か顔を見合わせた私だが、ここはもう勢いに身を任せるほかないと、えいや、と建物の引き戸を開けた。

薄暗い階段の下に、すのこが敷かれた非常に狭い脱衣所があった。そしてその奥に、薄い引き戸一枚を隔てて石造りの狭い浴槽が一つだけあった。

電灯の明かりは小さく、高いところにある小さな窓からの採光は心もとなく、総じて室内は薄暗くて見えづらい。

謎に地下牢のような雰囲気がある。運よく地元民はおらず、利用客は我々だけだった。

これでもし先客がいたら居心地の悪さに退散していたところである。

共同浴場らしく石鹸などは無い。さきほど露天風呂に入ってきたので洗体は許してもらうことにして、まずはかけ湯からと、近くにあった風呂桶で足へ湯を恐る恐るかけた。

「あっつい!」

そしてあまりの熱さに、私たちは全員悲鳴を上げた。

湯が熱すぎる。人が入れる温度をしていない。指先を浴槽に入れてみると、ああ、これはダメだとすぐに分かるくらいの熱さである。

草津の源泉は90度以上の高温だ。そして共同浴場はたいてい、源泉かけ流しである。

つまりこの浴槽には、どんなに低く見積もっても人を火傷させるに十分な温度の湯がたまっているのだ。

これはいかん、冷まさねば。近くに冷水が出るホースがあって、それを高温の湯船に突っ込むと蛇口を全開にする。湯もみ用の道具もあったので、それを使って必死に湯を混ぜまわす。

やってもやっても、湯はいつまで経っても冷めてくれない。どんだけ熱いんだと悪態をつきながら湯と格闘することどのくらいか、裸のままでいて体が震え始めたころにようやく、未だかなり熱めではあるが一応入れる温度になった。

露天風呂でせっかく暖まった体は冷えてしまい、また暖かさが恋しくなった私たちは次々に湯へと入り込む。

熱めの湯は、強烈に私たちの体を包んできた。

高温源泉かけ流しゆえの、万人に最初からウェルカムな感じが無いのがまた、共同浴場の趣だ。

しかしその手洗い歓迎を乗り越えれば、この渋さいっぱいな雰囲気も乙なものである。

狭くて景色の良さもなく、ただ湯を使う場所。

だがそれこそがまさに生活の場の証かもしれない。

観光客にとっては物珍しいこの湯も、地元民には日常の湯。

この熱さも刺激もきっと日常なのだろう。

出しっぱなしの冷水を止める。

少しだけ熱めで冷ましはストップだ。

地元民が日々味わう湯の熱さを、あえて感じたくなったからである。

地元民の好意によって使わせてもらえるのが共同浴場であり、ここでしか味わえない独特な趣がある。

観光地に行くと気持ちが大きくなって、大胆なふるまいをしてしまう気持ちは理解できる。だが好意を裏切ってしまうような行為は慎まないといけない。

私が感じたこの気持ち、感情を、将来の人々も感じてもらいたいと思う次第である。





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