ことば

言葉を探している。

入院中に出来ることといったら、本を読むか、文章を書くことくらいだった。

けれども私が書く文章は、どれも稚拙で陳腐で、お世辞にも人の心を動かせるような内容ではなかった。いや、人の心を動かす必要など本当はないのかもしれない。ただ、自分で納得ができない。自分が抱く思いの10%すらも言語化することができていない。人間は、言語化というプロセスを経ないと、自らの思考を他者に伝達することができない。このまま私の命が途切れれば、私の最期は、今目の前に残された駄作そのものとなってしまう。そう考えると、堪らなかった。

小学生の頃、私は小説家に憧れていた。勉強が苦手で仕方のなかった中学時代も、国語だけは得意だった。学校で褒められたことなどほとんどなかったが、文章能力に関しては例外だった。

高校時代からは、英文法にのめり込んだ。英文法の知識に関しては、高2時点で、英語の担当教員を上回っていた。先生にdeliverは第4文型を取りますかと質問したところ、第4文型ってなに?と逆質問されたことがある。仕方ない。偏差値45の高校に入ったのは自分なのだから。

大学時代はさらにのめり込んでいくことになる。経営学部に通いながらは、といった単位のほとんどは、英語や言語学関連だ。文学部の学部に潜り込んでゼミに参加していたこともある。

言葉が好きだった。言葉が紡ぎ出すストーリーが好きだった。いつか自分でも作品を残したいと、心の中でずっと思ってきた。でも、今じゃない、文章は歳を取ってからでも書けるから、とやるべきことを後回しにし続けてきた。

そして、私は自分の病気を知る。残された時間の短さを知る。焦る。書く。そこで出てきた文章は、Chat GPTのプロトタイプの精度にも満たない、稚拙で陳腐なものだった。

困ったことに、作家に求められるのは、アウトプットはもとよりインプットなのだ。乏しい経験からは、貧相な文章しか出てこない。

プロットを考えようとすると、いつも塾のアイディアが頭に浮かぶ。思い返されるのは、いつもあの学習塾だ。早く記憶から消したい、でも消せない、あの個別指導塾だ。

言葉を探している。

自分の最期を正しく言語化するために。

「終わりよければ全てよし」というならば、「終わり悪ければ全て悪し」だろう。

なんのために生きるのか。

それは言葉を残すためだ。

見つけなければならない。

見つからなければ、私は、なかったことになる。

生きていたことも、死んだことも忘れられる。

それでいいとは思えない。

言葉を見つけるとは、生きる意味を見つけること。

生きる意味を見つけるために、私は、生きる。



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