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第五回 作品

2021.6.13
第五回

 はい、今回も何も考えずに、とにかく手を動かしながら2000字書こうと思います。前回は副産物というタイトルで、左手で文字を書くときに思うことについて書きました。左手で文字を書いたときに、文字が生まれる以外に何が生まれるのか、ということを書いていきました。

 今日は、左手で文字を書くことによって、右手で文字を書くことが楽しくなる、ということについて書いていこうと思います。まず、左手で文字を書くと、行為として慣れていないので、普段右手で文字を書くときには分からなかったこと、というか見過ごしていたことが見えてくるようになります。それは、ボールペンの持ち手の硬さであり、細さであり、ペン先のボールであり、紙の質感と、とにかくいろんな情報が新鮮味を持ってこちらに向かってきます。

 まあ、それ自体が楽しいわけです。自分が当たり前だと思っていた世界には、自分の知らなかったことがたくさんあることが分かるからです。つまり、世界が広がるからです、足元から。これほどコスパの良い楽しみ方はないと思います。紙とペンがあれば出来ますから。自らの足元自体が自分の知らない世界に立っているなら、それほど刺激的なことはないと思います。何をやっていても刺激があって新鮮で、つまり退屈しない。結局、退屈こそが人間を鬱鬱とした感情に浸からせるのだと思います。

 そして、左手で文字を書くことに慣れてくると、いつの間にか自分の頭の中にある、書くという行為の定義、内容が更新されています。今までの右手で文字を書くということに加えて、手の動き、ペンや紙の質感、文字の形、成り立ちなど、様々な新しい情報が付随されていきます。その上で右手で文字を書いたとき、何とも不思議な感覚に陥ります。

 文字と、ペンと、紙の生み出す美しい世界を右手が作り出しているような感覚になるのです。右手はその道のプロです。伊達に何年もやっていません。その場で最高の指揮者として存在するのです。そして、ただ文章を書くだけで、まるで交響曲のタクトを振っているかのような優雅な動きを右手は見せ、ボールペンと紙もそれに呼応し、その文字、その文章の最大限の何かが生み出されるように働きます。そうやって生まれた文章は、もはや今までのものとは異なります。作品です。単なる紙の上をペンで書いた文章が、れっきとした作品に生まれ変わるのです。

 つまり、自分たちは作品を知らないのです。この世のあらゆるものが作品であるのに、その内側に入っていかないがために、それが作品であることを知らずに過ごしているのです。これはとてももったいないことだと思います。すべては自分たちの意識の内側に存在している。その内側をなぞるように動いていくと、それがいかに複雑な動きを示してるのかということに気付くはずです。そうやって、一周回って外に出るとあら不思議、それは作品に変わっています。もう、ただのもの、ではなくなっています。絶対的価値がそこには存在します。

 それは、全てにおいてそうであるわけです。ここでこうやって、文章を書いていること自体が、書いている僕の意識の内側を意識で持って辿っているわけです。そして生まれてくる、液晶の上の文字は、ただの文章ではなくなっています。れっきとした作品となるわけです。少なくとも僕にとっては。そして他人が書いた文章を読むということは、その他人の意識の内側を辿っていくことです。そして辿り切って外に出てみると、つまり読み終わって日常世界に戻って振り返ると、そこにはもう、それを読む前のただの文章は消えています。

 万事がそういう具合です。だから作品はまず、自分で作り上げる。生活の中に無数に作品は存在する。それを理解するには、自分の意識を、周りの「ただのもの」の中に向けて、その世界を旋回することです。それによって、絶対的価値、すなわち意識が立ち上ってくる。そう思います。

 なんだか、左手で文字を書くと右手で文字を書くことが楽しくなることについて書こうと思ったのに、作品がうんたらこうたらという文章になってしましました。これも、意識を旋回した結果です。意識を旋回したというか、無意識の中を意識で旋回したという感じですかね。これは楽しいですね。楽しいということはつまり、意識が自由に動いているということです、それそのもののエンジンでもって。飛び回っているということです。自由ということは、意識が無意識の中を飛び回る、ということなのでしょうか。そういうことも、自由の一部という感じですかね。

 というわけで、今日は左手で文字を書くと、意識が自由を感じられるという話を書きました。自由に飛び回ることが出来るのは、左手ではなく右手です。でも左手があるからこそ、その自由に気がつけるわけです。

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