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小さな商店街に潜む後ろめたさの正体

僕は設計事務所で働いている。
建築が好きだしデザインを通して社会と繋がれるこの仕事が大好きだ。

3.11以降あらゆる場所で人の繋がりの大切さについて話を聞く機会が増えた。建築業界もその流れを受け、これまでの窮屈な社会に適合した建築を見直すタイミングが来ている。 

僕は今、「欅の音テラス」という建築で暮らしている。社会と建築に新しいつながりをつくろうという試みのある家だ。
僕はこの家で暮らしてから「後ろめたさ」を感じる事が増えた。

先日松村圭一郎さんの「後ろめたさの人類学」を読んでからその正体に近づけた気がする。

欅の音テラスの暮らし

欅の音テラスについてはこちらから(ナリマノワプロジェクトについて)
https://narimanowa.com/

この家を最初に見たとき、山本理顕さんが設計された東雲キャナルコートを思い出した。
「世界のSSD100」という本の中で共用廊下に開かれたガラス張り住戸の中でかき氷屋さんを営む青年のエピソードが記載されている。自分が持つ小さな技を活用すれば社会に接点をつくることができるという素敵な事例だ。

そんな仕組みを大きなコンセプトとして展開したのが欅の音テラスだ。欅の音テラスに住む住民はそれぞれ技を持っている。暮らしながら発揮できる小さな特技。

服をデザインできる。
フェルトを使ったワッペンがつくれる。
カレーやチャイがつくれる
アロマセラピーができる、、、
など、副業として技を披露する人が多く暮らしている。中には本業として、雑貨屋や学習塾を営む家もある。

「小さな商店街」
おそらくこの建物に相応しいフレーズを考えると、真っ先に思いつくのはこんなフレーズになるだろう。

僕はこの小さな商店街で店を持たない唯一の住民である。
技を持つことなく入居を許された僕ははここでどう暮らすべきか悩みながら暮らしている。
入居した理由は手軽な家賃と職場へ通いやすい手頃な距離だった。

他の住民の方々とは大きく意識に差があるわけだが暮らしているうちに、普通の住宅とは違うコミニケーションの密度に興味を持つようになった。

観察者としての暮らし

欅の音テラスは月に1度dodayと呼ばれる日がある。この日は住民が集まり何かしらの活動をする。
庭で小さな畑を耕したり、オーナーが持つ別の物件を解体したりしている。
その日の夜は飲み会があり、2ヶ月に1度行われるマルシェの運営や日々の生活の問題などを話し合う。
この場にはオーナーや設計者も参加する。

この会とは別に月に何度か住民同士で焼肉やタコパが行われている。

シェアハウスで暮らした経験があり、こんな感じかなーというイメージがあった僕もこのコミニケーションの濃さに戸惑ってしまった。

まぁ面白そうだしいいかと何度か参加した後、僕はあまり参加しなくなった。
時間が合わないのもあるが、そんな密度の高いコミニケーションを求めていなかったからだ。
そんななかで僕は観察者としてこの家で起こる特別なコミニケーションを体験する道を選択した。

観察者の僕にも2ヶ月に1度マルシェはやってくる。これにはなるべく参加しなければならない。技を持たない観察者の僕もこの日だけは商店街の一員にならなければならないのだ。

また、普通の賃貸アパートとは違い、共用部の掃除は住民が分担して行う。この分担も住民が主体で考える。

ここでは、普通に暮らしいくのもとても難易度が高い。

この家が凄いのはこのような多くの課題を住民主体で解決していく。

当然負担が大きい住民もいる。本業に近い形で店舗をやっている人たちにどうしても矛先が向いてしまう。
もちろん僕だって掃除はするが負担の量は違う。

そんな状況をただ観察していた僕はなんとも言えない後ろめたさを感じていた。

「後ろめたさの人類学」

この本を見つけたのはそんな「後ろめたさ」からだろう。

著者の松村さんがエチオピアでのフィールドワークを通して感じた「後ろめたさ」のコミニケーションから日本の窮屈な暮らしを見直すキーワードをいくつかあげているような内容であった。
特にお金が発生しないコミニケーションに生じる「後ろめたさ」に凄く共感してしまった。欅で起きている事はまさにこれだ。
エチオピアの人達は色んな物をくれるし色んな事をしてくれるようだ。
贈与のコミニケーションにはお金は発生しないが気持ちが発生する。
その分めんどくさい事もある。
何かお返しをしなければいけない気にさせられる。

欅の音テラスはお金で解決するのは好まれない。僕が掃除をサボっても、マルシェをサボっても、そこに罰金は生じない。他の住民がフォローしてくれる。他の住民に対する申し訳さがただ残るのである。お金を払って解決するコミニケーションが取れればどんなに楽なんだろうと思うし、そんな提案をしてみたりした。(却下されましたしそれがいいと思います。)

それでも欅の音テラスの住民はみんな優しい。
本当は文句だってあると思うが、直接それを言わないようにしてたまにイベントに参加すれば仲良く話してくれる。みんなの優しさにとても助けられている。

「僕も何かの役に立たないと。。。」

観察者である僕も暮らしの中でこんな気持ちになる瞬間がある。後ろめたさという一見ネガティブな気持ちが色んな事に気づかせてくれる。

2ヶ月に1度のマルシェも日々の暮らしも住民の気持で成り立っている。多くの住民は本業を持ちながら店舗をやり、余力でマルシェを運営する。イベントを運営するのは本当に大変だし、利益を生むのもすごく難しい。
多くの建築、不動産関係者がマルシェに訪れたり、建築の賞で欅の音テラスを称賛する。この称賛は設計者はもちろんだが、小さな商店街を支える住民に向けられているのだ。
それでも住民は欅の音テラスが大きな賞を受けると、率先してお祝いを企画する。
竣工後も運営のお手伝いをしてくれ、素敵な建物をプレゼントしてくれた設計者への恩返しという気持ちで動いているのだ。

最近、欅の音テラスに少し動きが起きた。
こんな暮らし方に対してみんなそれぞれ疑問が出てきたのだ。
こんな時も住民の誰かが意見をまとめたり提案してくれたりして新しい制度が出来る。

今回の提案は、住民が管理する部分とオーナーが管理する部分を明確にしようという提案だ。
住民の中から管理人をつくり、管理人にはいくつかのタスクが振られるかわりに少額のお金が発生する。少額のお金というのがポイントである。

従来の労働の仕組みと贈与の間のようなシステムだ。今後も管理の仕方は議論され、適した形に変わっていくのだろう。dodayは生活を面白くする活動ではなく、生活に必要な掃除を徹底的に行う日に変わる。
少しづつ合理化されている。

また、引き続きマルシェは行われる。さすがに日常時よりも来客が多いため運営は大変だが続けることになった。

この先、「小さな商店街」は何処に向かうのだろうか。

おそらく経済的に言えば欅の生業で生活が成り立っている住民はほぼいない。
これも今後の大きな課題である。

ただ、間違いなく言えるのはこれまで作られてきた大きな社会のシステムや常識に対しての対立軸になり得る存在である事だ。

管理のシステムが変わろうとも住民同士の贈与のコミュニケーションは変わらない。

僕はしばらくこの小さな商店街で観察を続けるだろう。まだ後ろめたさはなくならない。貰った分返せてないからだ。何かを贈るのはとても難しいが、何かをしたいと思わせてくれる。この「後ろめたさ」がなくなるほど、贈り物が上手くなった時、ようやく窮屈な社会から開放されるヒントがみつかるかもしれない。

#建築 #コミュニティ #デザイン









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