【雑記】Who am I ?

例えば、久々の片想いで失恋したり、同期職員がやめるという報に接したり、あるいは、新入職員の採用面接をしたり、はたまた、国際会議の運営のお手伝いをする中で非力を痛感したり。
そうすると、アイデンデンティの揺らぎが生じる。
Who am I ?
ジャン・ヴァルジャンほど頭を悩ませているわけではないけれども、己のraison d'êtreを改めて確認したいという気になる。(それを模索することもないし、再定義が必要になるほどの揺らぎは生じていないとは思うので。)
かっこつけないで言えば、初心に帰る。ということに他ならない。
自分はこのままでいいのか?
何かの役に立っているのか?
役に立てるように努力しているのか?

という焦りである。
このままだと、気づいたときには、プライドだけ高くて何もできない、しょーもない人間になってしまうという焦りである。

同じ問題意識でこのnoteを始めたが、以降、怠慢に怠慢を重ね、サボりにサボりまくっているから、もはや、そんな人間になってしまっているのかもしれない。(高校生とか大学生のときの方が努力していたよな、、と普通に思うのだから、真なのだろう。)

3月に自分で書いたnoteを読んでみた。

勉強方針として、まともなことが書いてあった。3ヶ月ちゃんと続けていたら効果があっただろうと思う。
が、続けられなかった。
なぜか?
怠慢だからである。

○100語英作文は1ヶ月続けたが、一度やらなくなって、そこからは全くやっていない。1ヶ月分の月額費を無駄にした。
○電車でラジオを聴くというのは、それなりにできたと思う。難しい話は続かなくて、ソープオペラとかを聴くことが多かった。
○休日に英語で勉強するというのは、やはり、至難の業であった。ちゃんと実現できたのは1日もないのではないか。(一応、取り組みはしたが、脱稿できていない。)
○そして、なぜか、瞬間英作文トレーニングのようなものに新しく課金をした。
https://patapura.com/article/pattern-practice?gad=1&gclid=EAIaIQobChMIzJzXy-bg_wIVVVtgCh1-lg7PEAAYASAAEgIZ2PD_BwE

やるべきことをやらずに、新しい教材に手を出すあたり、それこそ、勉強ができない子そのものである。。

自分の存在意義みたいな話をしようと思って書き始めたが、結局のところ、自己研鑽を頑張ろうということに尽きるのかもしれない。

僕の存在意義は、基本的には、public realm におけるそれ、つまり、職場でのそれにより規定されるところが大きい。もはや、全てと言っても差し支えないかもしれない。(あるいは、僕に限らず、存在意義とかアイデンティティとかいう概念自体、他から見られ・聞かれる空間であるpublic領域におけるものしか念頭に置かれていないのかもしれないが、そこには深く立ち入らない。)
だから、有体に言えば、僕の存在意義は、すなわち職場における存在意義であり、仕事において活躍できるか・役に立てるか・何をもたらせるのか、(一歩進んで、その際の独自性・特異性は何か、)に尽きるのである。

ただ、法律を通してから、職場でここのところ暇である。中長期的にやるべきことはあるが、他律的に〆切に追われることはなく、職場でもダラダラを極めている。(一応、やるべきこと・やりたいことは、そつなくこなしているつもりだが。)
そうすると、存在意義を肯定するのが難しくなってくる。(今やってることは、課の中では僕しかできない、というか、たぶん僕が一番できることだから意義はあるのだけれど。)
仕事が少し暇になると、(仕事とは直接関係しない)自己研鑽に励まなくてはならない…という事実に直面する。正確には、その事実に目を向け認識する余裕が生まれるということだが。
きっと、それは仕事において自分の価値が思うように見出せないものだから、違うところで磨きをかけたいという意志の現れなのかもしれない。

そう考えると、先に、「僕の存在意義は、基本的には、public realm におけるそれ、つまり、職場でのそれ。」と書いたが、後段は誤りかもしれない。public realm = 職場 は、さすがに言い過ぎである。もちろん職場が大部分を占めるのは言うまでもないが、public realm ⊃ 職場 は真だが、逆は真でない。
職務と直接は関係のない勉強(知的営み)をして自分を磨くことは、職場における存在意義をも高めることにつながるが、(また、職場における存在意義を高める行為であると認識しているところもないではないが、)むしろ、もう少し広い意味での「自分」ー無論、それは、public 領域において他者から認知される自己であるがーのraison d'êtreに関わる(願わくは価値を高める)ものという性格が強いのではないか。
平たく言えば、自分の中で想い描く理想の自分、こうありたいという姿、それと現実の自分との乖離を少しでも埋めるための営みなのであろう。

それで、
何が足りないのか。
というと、
」である。
知識であり、知恵であり、知力である。
(そして、それを得るための努力である。)

如何にも頑張りたい所存。
と、noteを書き始めたときから全く進展がない(時間が経ってる分だけ後退している)意志表明をする。

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