不登校児が学校に行きだした話
我が家の不登校児は現在中1の次男。
どうすれば良いのか悩みながら、今でもあの時の選択は間違いだったかな?と思いながらも変化があったので、まあ間違いでもなかったのかなとは感じている。
かなりざっくりと書いてあり、妻側の対応など網羅できていないのはご了承下さい。
1.結論とポイント
正解かどうかもわからないなか、だらだら勿体付けて書くのもどうかと思うので簡単に先に書きますね。
基本スタンスは、学校に行けとは言わずに放っておいた事。
ポイントは、学校ではなく別な事で人との接触機会を与えた事
この2点くらいです。
では時間を巻き戻して、発生からの経過を振り返ってみますね。
2.不登校の始まり
始まりは今から約1年前の小学6年生の9月頃になります。
もともと休み明けとか、学校に行きたくないと言う傾向がある子供だったんですが、10月にある運動会を前に更に酷くなっていきました。
どうやらやりたくない競技があるんですね。
それとは別に、この頃私が仕事の関係で10月から単身赴任で不在になる事も決まり、心理的な影響も出始めたのかと。
そして運動会後から学校に行かなくなった。
6年生なんで卒業アルバムの準備を学校では進めているのですが、完全不登校で写真撮りに行くだけでも「嫌だ」と言うありさま。
写真を撮ってくれれば、あとは合成してくれるとの事になり、私が撮影をすることに。
合成のしやすさとか違和感をなるべく出さないようなカットで撮影し、カメラマンをしていて良かったなと思えた出来事。笑
3.どうすべきか悩む期間
最初のうちは学校に行くように促したりもしていたが、妻がそれではあまりにも彼の心が苦しくなるだろうという事で、様子見をおこなうことを始めた。
そして不登校の事を書いてある書籍やブログを読み漁る時期に入った。
まあ、そこでも無理に行くように言うのは逆効果と書いてあることが多く、それに従う事とした。
私の気持ちとしては、どこか施設に強制的に入れるべきかな?など本気で考えて私自身は「学校くらい行け!」と思う派だし、そうやって自分も育てられてきた。
皆勤賞・精勤賞みたいなのがあり、病欠以外ではそうなるのが普通と感じていたのである。
強制的に施設に入れるなども本気で考えていたかな。
彼にとっては幸いだったか、私は単身赴任で月に1~2回しか自宅に帰れないので、私の強制力は働かないのである意味私自分も「あきらめ」る事とした。
年末年始も近づき、卒業や中学への入学の準備も次第に始まってきたころ、彼は「中学校には行く」との事だったので、そこまでは猶予期間と思い入学式には環境も一転するから行ってくれるだろうと楽観的に思っていた。
その頃の彼の様子は、部屋に比較的籠り切りで食事とトイレの時は出てくる状態。
それでも会話は普通にあるし、料理も自分で少しづつ作るようになってきたようだ。
妻は褒め上手なので、ちょっとした事でも気づいて褒めてあげる→「自分に自信を持たせる事」を中心に会話を進めていた
4.卒業と入学
卒業式も近づき、この話題には触れずには済ませられない。
もちろん学校側もなるべく出席して欲しい旨を私たちに連絡をしてくる。
彼自身は、当初は頑なに「行かない」との返事であった。
ある時、私が少し強制的に卒業式参加を働きかけた。
「お前が行きたくないのはわかった。だけど、小学校を卒業するのはお前だけではない。父さんも母さんもこれで小学校が終わるから俺たちも卒業しなければならない。
だから、お前が行かなくとも俺たちは卒業式に参加するから、一緒に行くなら考えておいて」と。
2人兄弟の次男だから、ホントにこれで小学校とは親としてもお別れになる。
なので、彼が行く行かないにかかわらず参加しなければならないと思っていたのは事実である。
そして、学校側も式での別席を用意してくれたのでクラスには行かずに参加できるというオプションの提供もあり、周りの関係者の協力のもと晴れて卒業式を迎えた。
3月4月は忙しい、次は中学校の入学式である。
彼は約束通りに中学からは行ってくれるのであろうか?
私はお人好しで、すぐに人を信じてしまうので気分も周りの人間関係もリセットされれば行くのだろうと思っていた。
当日を迎え、ドキドキしながらも学校には朝行った。
小学校よりも通学距離がかなり短くなったので、かなり楽な通学だ。
とは言え、人生うまくは行かないのが常なのか?笑
式が始まりクラスごとに入場が始まった。
事前にクラス分けを見ていたので、お目当てのクラスの入場を目を凝らしてみるが見えない。
何度見ても見えない…
式次第ではその後1人1人呼ばれ起立する事になっている。
呼ばれた、誰も立たない…
落胆である。
彼はどこかへ行ってしまったのであろうか?
とりあえず、頭の中は?マークしか出なかった。
式も終わり、私は先に自宅に戻る事とした。
校庭の帰り道、校舎の方を見ながら歩いていると窓越しに誰か見えた。
そう次男である。
どうやら気分が悪いと保健室で休んでいた。
理由は人に酔ったとの事。
この事も卒業式・入学式前には人に慣れておけと言ってあったが、ある意味予想通りの展開。
結局、次の日から小学校と同じく学校には行かなくなった。
私の気持ちは「クソ!」「なめんな」である。
信じた自分を呪った。
5.転機のはじまり
入学式が終わったら、私はそのまま飛行機で赴任先へ戻ったので、彼にとっては危機が去り平穏な日が訪れた。
10月から4月まで6か月あった訳だが、何一つ進んでいないのかな?と自分の行動力の無さも呪いながら、次の展開を考えていた。
不登校ブログで、「背中を押してあげる」事も時には必要との内容がどこかに書いてあったのを思い出す。
学校ではない「何か」、人と接触できる「場」をまず探そうと思った。
その候補の1つで考えたのが「プログラミング教室」である。
ゲーム的要素もあるので、楽しみながら出かける機会が出来るのではと考えた。
早速、私は体験入学の日程を調べて妻のスケジュールを聞く。
ちなみに妻はこういうスケジュール立てが苦手で延び延びになるので、私の強制力で予約を取った。
これが意外と転機になりそうな感触があった。
今までは嫌なものは「嫌、やらない」という反応だったが、今回は「別に」という反応。
「別に」は「嫌」では無いという反応です。
嫌では無いなら望みがあるので、週1回やってみようねという事で始める事にした。
通学の長い電車旅は嫌そうだが、そこはきっと簡単に乗り越えるハードルだと私は思っていた。
という事で、たまに休む日もあるが毎週妻の付きそいでスタートしたプログラミング教室だが、段階を経て今では自分で片道1時間の電車通学もこなして通っている。
一人で都会を行き来できるのは凄いんじゃない?とか音楽聞きながら電車乗ってたらカッコよくない?と少し大人への一歩を強調しつつ、段階的に一人で行ける距離を増やした。
きっと、そうすれば見える世界が少し変わるのではないかと思い。
6.通学再開へ
7月頃だっただろうか、同じく不登校気味のお友達の親御さんから妻に連絡があり、一度一緒に相談室に通学してみませんか?との誘い。
その友達は幼稚園で一緒だったこともあるが、もう何年も本人同士は会ってはいない。
でも、じゃ少しの時間だけ行ってみると。
まず「初めの一歩」が踏み出された。
あとから相談室の先生からその時の様子を聞くと、お互いに特に話す訳でもなかったが、とりあえずは相談室でそれぞれの事を1時間程度したとの話であった。
他にも知ってる友達が相談室通学をしている事もあったようで、それから不定期ではあるが相談室通学が始まった。
学校には2時間居るかいないかの時間ではあるが、かなり大きな1歩になった。
また、プログラミング教室だが、自分の成果物も出来始める事で楽しみも増えてきたようだ。
そして成果発表のプレゼン大会であるLT大会(ライトニングトーク)が行われるが参加可否の確認が教室から届き、本人に聞くとこちらも参加との事。
Tweetには次男の事は特に書いてないですが、きちんと自分のやってきたことを生徒や保護者の前でスピーチもできるという場に立ち会える事ができた。
最後に
だらだらと、書いておりますが現在は快方に向かっていると楽観的に思っています。
時期がくるまで待つことも必要であったり、ほんの少しの背中をポンっとやってみる事をうまくミックスさせながら今後も進んで行きたいと思ってます。
私の撮影活動(商用以外)での費用に充てさせていただきます ご支援宜しくお願い致します