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ハリー・パーカー『ハイブリッド・ヒューマンたち 人と機械の接合の前線から』

アフガニスタン紛争で地雷を踏み、両足を失った作家の人のエッセイ。あるいはノンフィクション小説。なんと呼べばいいか難しい。端的に言えばこの読書感は SF なのだけど、フィクションではないので、SF からフィクションを取った残り、サイエンス、ということになってしまう。でも、サイエンスというよりはテクノロジーの話で、なによりもこれは、ヒューマン、についての話だ。SF が常にそうであるように。

みたいなストレートな書評は、この人の記事が素晴らしいのでこっちを読んでほしい(何を隠そう、これを読んでこの本を買おうと決めた)。


では上の書評とは違うことを書こうと思うと、なんか平凡な褒め言葉になってしまうけど、この本は、まずもって文章がいい。生々しくて、それでいて淡々としている。たぶん原文がいいのもあるし、翻訳の質も素晴らしい。こんな具合である。

「でも、どうしてもうまく呑みこめないところがあるんだ」と私は言った。「それは、自分のなかに永久にふさがらない穴が開いているってこと、金属のロッドが切断面から突き出てることなんだ――自分のなかから。(略)」
「いまじゃおれの一部だよ」とジャックは言った。(略)
彼は道具を取りに席を立った。
「これは四ミリの六角レンチで、義肢に食い込んでつなげている止めねじをこれで締めるんだ」
彼が六角レンチを半回転させると義足が外れ、私はロッドと穴を見ることができた。そこから義足が皮膚に入っているのだ。断端のむきだしの肉と、かすかに赤くなった移植された皮膚が、インプラントの周りでたれ下がっていた。これが未来だ。

これは、オッセオインテグレーションというチタンと骨をくっつける手法について話しているところで、個人的にこの本でもっとも印象的だったシーンだ。まさしく人体とテクノロジーの接合面が、その生々しさが、まざまざと見せつけられる。「むきだしの肉」という言葉が文字通りの剥き出し感で、「ハイブリッド・ヒューマン」という語感でなんとなくイメージしていたオシャレさとかスマートさを突き破ってくる。どこまでハイブリッドになっても、人間の体には肉と骨と血がある。少なくとも今はまだ。

実際、「むきだしの肉」と聞いてどこか不安になるこの感覚は、正しいらしい。皮膚に覆われていないということは感染症のリスクがある。また、骨折のリスクも上がる。それでも、人によってはリスクを承知でオッセオインテグレーションを選ぶ理由がある、という当事者の胸中が語られる。もし自分ならどうしていただろう、と考え込んでしまう。


ちなみに、この本は「もっと人間をハイブリッド・ヒューマンにしよう。テクノロジーで人体をアップデートしていこう!」みたいな主張をする本ではない。オッセオインテグレーションに関しては割と中立的な語りになっていたが、読み進めると、筆者が比較的保守的な考え方であることがわかる。

ケビンと会ってから数週間経っても、かすかな動揺が残っていた。身体は最適ではない入れ物であり、アップグレードを必要としている、という考え方への動揺だ――

あるいはこのあたりのニュアンスも、筆者の身体の不自由さがもっと重ければ違ったものになるのかもしれない。といった、われわれの勝手で野暮な想像も、われわれの身体の不自由さが違えばもっと違うものになるのだろう。どう違うようになるか、それを客観的に想像するのは難しい。身体について語るとき、自分が自分のこの身体の当事者である、という事実から逃れることはできない、という当たり前のことを肝に銘じた。

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