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町田康『入門 山頭火』

町田康の本で一番好きなのは?、と聞かれれば、名作『告白』を迷わず挙げる。

『告白』は、「河内十人斬り」という殺人事件の犯人が、なぜ十人斬りをしなくてはならなかったのか、という人間の深淵に迫っていく本だった。町田康の著作は、小説からエッセイまで幅広いが、その中でも『告白』は異彩を放っている。古典の現代語訳も面白いけど、またこういう社会派ドキュメンタリー小説も書いてくれないかなあ…

と思っていた人は、この俳句の読み方の入門書のふりをした社会派ドキュメンタリー『入門 山頭火』を読むべきだ。今すぐに。

『入門 山頭火』は、「分け入つても分け入つても青い山」を詠んだ種田山頭火が、分け入らなくてはならなかったのはなぜか、という切り口から、山頭火の句に、その人生に、まさに分け入っていく。そういう本だ。「入門」などという生易しいものではない。ひとりの人間のどうしようもなさが、読者の眼前に叩きつけられる。もし自分がこうであったならば、なにか救いはあっただろうか?、と思わず天を仰いでしまう。そのような本なのだ。心に余裕があるときに、もしくはまったく余裕がないときに、一気に読むのがいい。

構成としては2部に分かれている。

第一部は、「分け入つても分け入つても青い山」を読むまでの人生が語られる。平均寿命が50歳の時代に、この句を詠んだ時に山頭火はすでに43歳だった。老境に差し掛かる年齢にして行乞(乞食)として流転の旅に出ないといけなかったのはなぜか、山頭火はいかにしてそこまで追い詰められていったのか、という個人史が紐解かれる。

第二部は、それ以降の晩年が語られる。「分け入つても分け入つても青い山」の時点ではまだ、未知の領域に分け入っていくぞ、みたいな雰囲気もあったのが、「まつすぐな道でさみしい」となり、「自嘲」という前書のついた「うしろ姿のしぐれてゆくか」になっていく。

俳句に親しみがないので、ふつう、300ページもかけてひとの人生を深堀りしないと俳句は楽しめないものなのか、というのはよくわからないけど、不思議なもので、「この話、なんか本題と関係ある…?」と思いながら変幻自在の町田康の語りを読んでいくうちに、山頭火の句の味わいがなんとなくわかってくる。

たとえば、「まつすぐな道でさみしい」は、初めに見たときは「まっすぐさと寂しさってなんか関係あるの…?」と思ってたけど、今はわかる。「まつすぐな道」とは何なのか。町田康はこう説明する。

 で、人間の完成を目指す道が真っ直ぐとはどう云うことかというと、もう全然、迷う余地のない一本道である、ということであろう。
 と言うと、「じゃあ、いいじゃん」と多くの人が思う。「それのなにがいけないの?」と多くの人が問う。と言うのはそらそうだ、道が曲がりくねっていりゃこそ人は惑い、そして迷う。正しい道を歩むことができない。だが、まっすぐだと迷うことなく目的地に辿り着くことができ、とても工合がいい。
 にもかかわらずなぜそれがさみしいのか。はっきり言おうか? 言おう。
 おもしろくないからである。

ここで、おもしろさ、とは何かというと、酒を飲んだり女に囲まれたり、そういうことを指している。山頭火は、人間の完成を目指しているので、このおもしろくない「まつすぐな道」を選んだ。

というと、なんかこれだけでも多少のわかった感が出てしまうけど、これは1冊通して読むと、より実感を持ってわかる。山頭火は、このおもしろくない「まつすぐな道」を邁進しているかと思いきや、おもしろさに何度も絡めとられてしまう。具体的には、酒を飲んで泥酔したりする。むしろ、こういうおもしろさの誘惑から逃れるために「まつすぐな道」を志向しているわけだけど、逃れきれず行ったり来たりしてしまうあたりに、人間のどうしようもなさ、みたいなものを感じさせられる。

そして、これはおそらく、大酒飲みだった町田康にしか書けない本でもある。町田康は、ある種の狂気でもって飲酒の欲望を制したが、山頭火もまた、正常でいるためには狂わないといけない、みたいな困難な精神のあり方を生きた人だった。まだ読んでいなければ、『しらふで生きる』も読んでおくと、語りにより深みが増すと思う。


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