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町田康『しらふで生きる 大酒飲みの決断』

これは恐ろしい本だ。飲酒に限らず、人生観を根本から変えてしまう危険性を秘めている。

例えば、Twitterは今、「勤労感謝の日が土曜だと休日が増えなくて感謝されてる感がなくない? おおブッダよ寝ているのですか??」という悲しみとそれに対するわかりみで溢れかえっている。だが、俺はもはやその共感の波に乗ることができない。この本を読んでしまったばっかりに。

なぜか。この本の小見出しを借りて言えば、「私たちに幸福になる権利はない」と知ってしまったからだ。

どういうことか、という説明に、筆者は車の渋滞を例に挙げる。

走行していて渋滞にぶつかったとする。暫くの間、ノロノロ運転が続く。それが長く続くこともあれば、そんなに長くないこともあるが、我慢しているとやがて渋滞が解消して通常の速度で走行できるようになる。
おもしろい現象はこの後に起こる。どういうことかというと、いま私は、「通常の速度で」と書いたが渋滞を抜けた車の多くが、渋滞を抜けた途端、アクセルペダルを深く踏み込み、通常の速度を遥かに超える速度でぶっ飛んでいくのであり、その様はまるで、「ひどい目に遭った!」と絶叫しているようである。

なぜぶっ飛ぶのかといえば、自分が持っている通常の速度で走る権利が不当に奪われたからで、それを取り戻すべく通常以上の速度で走りたい、という理屈になる。しかし、と筆者は言う。私たちには本当に速く走る権利などというものがあるのだろうか。

たしかに渋滞にはいらいらする。なんか不当な扱いを受けているような気分になる。しかし、渋滞に遭わないような人間がいるだろうか。いる。総理大臣のような偉い人や、自家用ヘリを乗り回すような金持ちなら遭わない。では果たして自分はそのように偉かったり金を持っていたりするだろうか。違うならば身の程を弁えよ。

と、こうなるわけである。私たちに幸福になる権利はない。

ちなみにこれと飲酒に何の関係があるかというと、人は以下のようなロジックを持ち出して酒を飲みがちで、

自分は幸福である権利を有している。ところが今朝方から夕方にかけて不当にこれを奪われた。ひどい目に遭った。そこで自分は夕方以降、そもそも有していた幸福を感じる権利を行使することができるはずである。

しかしそもそもの前提が間違っているのだから酒を飲んでいいという結論も間違っている、という話にアクロバッティブに展開していくわけだがそのあたりの仔細はこの本を読んでもらうとして、少しだけ別の補足をしたい。

上に「身の程を弁えよ」と書いたけど、私たちは弁えたくない。身の程だろうが心の程だろうがうぬぼれに任せて生きたい。しかし周りを見渡せば世の人々はなにかしら弁えているようであり、もしかして弁えられていないのは自分だけではないか、俺は狂人なのではないか、という不安を胸のうちに抱える。

そんな暗い日々に俺は町田康の小説を読んで、あんまり弁えてなさそうな狂った人々を見てほっとしていた。ところがその同じ著者が、身の程を弁えよ、的なことを言っている。その衝撃たるや。俺もそろそろしらふで生きる時が来たのかもしれない、と思った。

(カバー画像:https://flic.kr/p/zShpXi

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